後漢滅亡の原因(なぜ外戚と宦官は対立するのか)
publish: 2019-01-08, update: 2020-07-26
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一般的に、後漢が衰退した理由の一つとして、宦官と外戚の対立が政治、行政を滞らせ王朝の権威を失わせたことが挙げられます。 この記事では、宦官と外戚の対立に関して、一歩踏み込んでみます。 最も大きな原因は、外戚の権力交代が滑らかに行われなかったため、というのがこの記事の趣旨となります。
外戚とは何か
外戚とは皇帝の后の一族を指します。 簡単に言えば、夫に対して、妻とその親族のことを指します。 また、子に対して、母とその親族も外戚と言えるでしょう。 つまり、結婚している男女の女性側の親族のことを外戚と呼びます。
したがって皇帝が変われば外戚も変わるのですが、皇帝は死ぬことによって自然に世代交代するのに対して、外戚は自然に世代交代する仕組みが構造上ありませんでした。 皇帝は死ぬと、その実子、あるいは養子など一族のものに権力は継承されます。 一方で、新しく即位した皇帝は皇后を指名することで新たな外戚を生み出します。 ここに、母方の外戚と、妻方の外戚という2つの外戚が並び立ちます。
外戚の存在は皇帝が即位するたびに新しく増えていきます。 にも関わらず、外戚は権力を継承させる先を持たず、権力を解体させる仕組みもなかったため、皇帝が世代交代をしても、外戚が世代交代をすることはありません。 一度手に入れた権力を自らの意思で手放すことはよほど難しいもののようです。 あるいは、自ら手放すことが政治的な混乱をもたらすことが予想されれば、手放したくとも手放せない状態にもなるでしょう。 外戚は構造上、常に増え続ける存在でした。 しかし、権力を持った存在が複数並び立った状態というのは安定した状態とは言えません。
外戚の世代交代の問題は、簡単に表現すれば嫁姑問題です。 家庭内の実権を握るのが嫁なのか姑なのかという単純な問題なのです。 しかし単なる嫁姑問題に終わらないのは、皇后(嫁)と皇太后(姑)のそれぞれの背景に一族という大きな勢力を抱えているからです。 皇后は皇帝の妻であり、皇太后は皇帝の母ですから、どちらも最高権力者である皇帝に容易に近づき自分の意見を発言できます。 外戚は有力な臣下であることがほとんどですが、そうでなくてもいずれ有力な臣下となっていきます。 何進は肉屋を生業とする庶民に生まれましたが、妹が皇后となったために大将軍という最高位まで上り詰めます。 嫁(妻方の外戚)と姑(母方の外戚)が争い、そこに夫(皇帝)も加わったとしたら、もっとも被害を受けるのは誰でしょうか。 それは子供(つまり庶民)です。
家庭内の不和が子供を非行にはしらせるように、国家の混乱が民衆の反乱を生みました。
宦官とは何か
宦官とは、皇帝や、皇后の身辺の雑務をこなす役人の事です。 いわば秘書とも表現できるでしょう。 宦官は去勢されていることが大きな特徴です。 生殖能力を持たないために、権力を世襲することができず、そのことが皇帝ら最高権力者の信任を得る原動力となります。 日本ではほぼ馴染みのないものですが、中華圏では長らく採用され続けた制度です。
宦官の問題は、その役割があくまでも雑務であったために、人材としての登用や評価に際して、能力や人格の評価にさらされることが、通常の官吏に比較してなかったことです。 宦官は去勢されていることが宦官たる最も重要な条件でした。 宦官が皇帝や皇后の信任を得やすいことと、宦官たちの多くが無教養であったことは、外戚同士が生み出した混乱を助長させることになります。
皇帝、皇后、皇太后の三つ巴の権力構造
皇帝、皇后、皇太后の三者の視点から権力の構造を見てみましょう。
母方の外戚(皇太后の一族)
一般的に考えれば皇帝の実母が皇太后であり、皇太后の実子が皇帝ですが、この時代は実子、実母であることのほうが稀でした。 側室も多く、死亡率も高い時代であれば、実子はいないか夭折することも珍しくありません。 皇帝が実子であれば意見も言いやすいものですが、実子でなければそうもいきません。 したがって、外戚の意向が強いほど若年の皇帝が立てられました。 若ければ若いほど御しやすいというわけです。ここで後漢皇帝の即位時の年齢を見てみましょう。
いかに後漢皇帝が幼かったかがよくわかります。皇位継承の際には母方の外戚の力が強く影響した証拠といえるでしょう。
妻方の外戚(皇后の一族)
妻方の外戚の権力基盤は何といっても皇帝自身です。皇帝の寵愛を受ける女性が皇后となりますから、皇后が寵愛を受けている間は皇帝と皇后の意思はセットとして考えられます。 しかし、後漢皇帝の即位時の年齢を見ればわかる通り、ほとんどの場合幼年での即位でしたから、皇帝は母方の外戚の傀儡にすぎません。 そして皇帝が成人して自らの権力を執行するために障害となるのが母方の外戚の存在でした。 また、皇后も皇太后が存在する限り外戚としての力は弱いものでした。 妻方の外戚が発言力を得るためには、母方の外戚に委任されている権力を皇帝自身に返還する必要がありました。
皇帝
母方の外戚の力が働き、即位するのは若年の皇帝ばかりでした。 しかし、皇帝が成人してもなお母方の外戚による政治は皇帝へ返されませんでした。 そのような仕組みが存在しないため当然とも言えます。 皇帝は復権を望みます。 それは皇帝自身が望む場合もあれば、権力を欲する妻方の外戚の影響や、あるいは母方の外戚が悪政を行っていれば政治的改革を目指す官僚層の影響もあります。 いずれにしても皇帝が親政を目指したときに、自らの手足として利用したのが宦官でした。 というよりも皇帝にとって利用できるものが宦官しかいなかったと言うべきかもしれません。 後漢が外戚と宦官の対立によって衰退したという見方はここに由来します。
外戚たちの実例
後漢で主だった外戚を見てみましょう
竇氏(章帝后)
後漢で最初の外戚の専横と言えば竇氏が挙げられるでしょう。 竇氏が章帝(第3代皇帝)の皇后となると、兄の竇憲は徐々に昇進します。 章帝が亡くなり、和帝が即位すると権力はさらに、竇一族に集中し、政治は竇憲を中心に動きます。 竇憲自身も北匈奴を討伐するほどの猛将で、遠征に成功すると地位をさらに強固にします。 ついに、竇憲は帝位の簒奪を計画します。 しかし、その計画は事前に和帝に露見し、和帝は宦官の鄭衆の協力を得て、竇憲の逮捕に成功します。 竇憲は自殺し、竇憲の一族と一派はことごとく処罰されました。 鄭衆は大きく信任された宦官であり、彼は養子をとって世襲することを許されました。
鄧氏(和帝后)
和帝の死後、安帝が即位すると、政治は和帝后の鄧氏とその兄、鄧騭によって運営されます。 安帝が成人してもなお鄧氏は政治の中枢にいましたが、専横とはほど遠く、鄧騭とともに政治の安定に寄与しました。 鄧氏は良識ある外戚と言えるでしょう。 しかし、たとえ善政を敷いたとしても外戚の末路は過酷なものでした。 鄧氏本人が亡くなると、親政を望む安帝と安帝后の閻氏一派が暗躍して、鄧騭とその一族は粛清されます。
閻氏(安帝后)
鄧氏の滅亡以降、安帝の政治は放逸になり、閻氏ら外戚によって専横されます。 鄧氏が安帝に政権を返さなかったのは、安帝の政治に不安を憶えたからかもしれません。 安帝の死後、その実権は閻氏とその兄の閻顕ら一族に握られるかに思われましたが、ここにクーデターを起こしたのが順帝でした。 順帝は宦官の孫程らの協力により、閻氏一派を駆逐して実力で皇帝に即位します。 順帝にとって皇帝に即位できた最大の功労者が孫程ら宦官でした。 順帝は大きく宦官を優遇し、彼らに世襲を許します。 孫程たちはそれでも節度を守りましたが、宦官の活躍は徐々に宦官の増長を招くことになります。
梁氏(順帝后)
後漢最大の悪臣に、梁冀が挙げられるでしょう。 順帝后の梁氏(以下、梁妠)は彼の妹であり、梁商は彼の父です。 梁妠が順帝の皇后となると、ほどなくして梁商は昇進を重ねます。 しかし、梁商、梁妠はともに謙虚であり、優秀な人材の登用に励むなど、外戚としては類まれな人物でした。 ところが、梁商の子、梁冀は父とは似ても似つかない人物だったのです。 梁冀は父の梁商が亡くなると本性を現します。 後に、梁冀は皇帝を毒殺するという暴挙に出ます。
梁氏(桓帝后)
梁冀によって質帝が毒殺され、桓帝が擁立されると、梁冀はその地位を盤石にするために妹を桓帝の后とします(以下、梁女瑩)。 桓帝の代になっても梁妠は皇太后として健在で、皇太后と皇后を一族で占めた梁冀の専横は頂点に達したと言ってもいいでしょう。 梁妠はその死に当たって権力を桓帝に返還するよう遺言しますが、梁冀は専横を続けます。 梁女瑩は父や姉に似ず、兄に似たようです。 彼女は桓帝に寵愛を受けた他の后たちを毒殺するという手癖の悪さで、徐々に桓帝の信頼を失います。 梁冀の専横を苦々しく見ていた桓帝は、宦官の単超らと計って梁冀を逮捕します。 梁冀は自殺し、一族は処刑されました。
竇氏(桓帝后)
梁女瑩が廃されたあと、後に桓帝の皇后となったのが竇氏です。 梁冀の粛清の後、宦官の専横は顕著になり、李膺や郭泰といった後に清流派と呼ばれる者たちが宦官を批判します。 この宦官排斥運動を恐れた宦官たちは党錮の禁と呼ばれる政治的弾圧を行います。 清流派には有能な官吏が多く含まれていましたから、この弾圧によって政治はますます滞りました。 外戚としての地位を高めたい竇氏の父、竇武は、宦官による政治の腐敗を一掃したい陳蕃とともに、宦官の排斥を計画します。 しかし、竇武は竇氏に宦官の排斥を計りますが、竇氏は宦官の排斥を望みませんでした。 そうこうしているうちに、竇武らの活動は宦官らに露見し、竇武、陳蕃らは殺害されます。
何氏(霊帝后)
竇武らの宦官排斥の動きは、完全な外戚 vs 宦官、あるいは清流派 vs 宦官の構図を持っています。 宦官はこれによりさらに政治的弾圧を徹底的に行います。 桓帝の後に即位した霊帝の時代は、まさに宦官の時代と言えるでしょう。 霊帝の后となった何氏の兄、何進はやはり宦官の排斥を試みます。 しかし、何氏もまた竇氏と同じように宦官の排斥を望みませんでした。 宦官は皇帝や皇后に側仕えする身であり、宦官が皇帝や皇后に取り入ることにいかに有利であったかがうかがえます。 何進は結局、宦官たちによって殺害されます。 そして、この混乱こそが後漢王朝の息の根を止めたと言えるでしょう。
外戚が権力を持つのは何故か
さて、外戚は妻の一族ですから出世するのは大目に見ても想像できます。 しかし、これほどまでに外戚に権力が無条件に集まるだろうかというのも一般的な感想かと思います。 実は、外戚に集権する理由、メカニズムは後漢の政治制度にありました。 それが儒教の存在であり、儒教的価値観を重視した孝廉という人材登用制度の存在でした。
儒教の考え方では親に対する「孝」こそが最も重視される価値観でした。 「孝」の価値観を浸透させたのが後漢の初代皇帝である光武帝でした。 光武帝は前漢を簒奪した王莽の前例を防止するために、官吏登用の制度の中でも儒教的な教養を計る孝廉と呼ばれる科目が重視されるようになりました。 これは、能力の大小よりも、その能力を扱う人格の善悪を重視したものと言えます。 権力構造の頂点として君臨する皇帝はその模範として「孝」を示さなければなりません。 皇帝は皇后の親族に対して礼を尽くすことが模範として求められたのです。 その考え方が外戚の力を増大させる原動力となりました。 能力よりも人格が重視される官界の中で、 外戚だけは能力も人格も関係なく、無条件で権力を得る構造を持っていたのです。
宦官が権力を持つのは何故か
宦官の制度は、古代から清朝まで続く、中国の歴史とは切っても切れないものです。 宦官の本来の職務は、宮廷内での生活に関する雑務全般です。 宦官がそのような職務に重用されたのは、主に宦官が去勢された存在だからです。 去勢されているがゆえに子孫を残せないことが、権力の拡大を個人的な範囲に留めることができました。 このため、最高権力者である皇帝にとって、宦官は身近の世話をさせるのに好都合だったのです。
宦官は職務として政治に携われる立場にありませんでした。 にもかかわらず、特に後漢で宦官が権勢を揮ったのには、後漢特有の職制に理由があります。 後漢では、中常侍という官職が存在しました。 中常侍は、皇帝の側近として侍り、皇帝と官吏たちの仲介をするのが役割です。 皇帝の命令は、中常侍を経て官吏に伝わり、官吏の上奏は、中常侍を経て皇帝に伝わりました。 後漢において、この中常侍に任命されたのが、伝統的に宦官だったのです。 本来は政治に携われない立場である宦官が、中常侍という極めて高い機密を扱う職務を通すことで、権力を私物化することができたのです。 後漢末期には、『三国志』でも有名な、十常侍と呼ばれる高級宦官の集団が確認されています。
魏の曹丕は宦官による政治腐敗を警戒して、中常侍の官職を廃止し、散騎常侍という官職に改めました。 散騎常侍では宦官の就任を禁止したため、魏晋南北朝時代では宦官の慢性的な弊害は解消されました。