三国時代の異民族
publish: 2019-01-22, update: 2020-07-27
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この記事は三国時代の異民族について概要をまとめたものです。個々の異民族の詳細を深掘りするのではなく、まず全体の概略をつかむためにまとめました。
概要
異民族って率直に言ってよく分からない、という人は多いのではないでしょうか。かく言う私も、三国志が好きでありながら、異民族の理解が進まないままでいました。しかし、三国時代の理解を深めるにつれて、特に晋以降の時代に手を伸ばし始めると、異民族の理解無くしては歴史を理解できなくなります。なにせ、三国時代のあと、つかの間の中華統一を果たした晋が滅んだのちは、五胡十六国時代という異民族の時代になるからです。
異民族 「(300年間)ずっと俺のターン!」
そもそも、異民族を理解するのが率直に言って難しいんです。例えば、人名は、檀石槐(だんせきかい)、冒頓(ぼくとつ)、蹋頓(とうとん)など、中華圏のように姓、諱、字のような分類を持たないため、まず人物に馴染みにくいというところがあります。また、音に合わせて漢字が当てられているので、漢字としての意味を多くの場合はもっていません。異民族は漢民族からは蔑視される存在であり、当てられた漢字も「卑」「奴」など、およそ自らは名づけないであろう悪字が当てられていることも馴染みにくさの要因となっています。 さらに、彼ら自身の多くが文字を持たなかったために、記録が残らず、彼らの事跡は中華王朝の資料から間接的に窺い知る必要があります。したがって、異民族の存在は、中華圏から見た異民族という一方的な見方であることも考慮しなければなりません。そもそも「異民族」という言葉自体が、漢民族から見て「異なる民族」を指しています。
三国時代の異民族
三国時代の前後にどのような異民族の存在が知られていたかをまとめます。
- 匈奴
- 鮮卑
- 烏桓
- 羯
- 氐
- 羌
- 山越
馴染みのある名前もあれば、見たことのない名前もあるかもしれません。 順に見ていきましょう。
匈奴
おそらく、数ある異民族の中でも最も規模の大きい異民族と言っても良いでしょう。その起源は古く、紀元前4世紀ごろにはその名が記録に登場し始めます。前漢の頃には最盛期を作り、劉邦は匈奴を攻めますが敗れ、前漢は匈奴に対して属国の扱いを受けるほどでした。この全盛期を現出したのが冒頓(ぼくとつ)です。彼は、東胡(とうこ)などの周辺の異民族を攻撃して大勢力を築きます。しかし、前漢の武帝の時代に、大規模な攻撃にさらされると徐々にその勢力を弱めます。匈奴に従属した他の異民族も時代が下るにつれて、徐々に離反していきます。外圧と内患にさらされ続けた匈奴は、後漢の時代になって、ついに北と南に分裂します。この時、後漢に服属し半農半牧した匈奴を南匈奴と呼び、残った匈奴を北匈奴と呼びます。北匈奴はその後、和帝の時代に竇憲らの大規模な遠征を受け(89年~91年)、ついに国家としての勢力を消滅させます。桓帝の時代には匈奴の勢力のほとんどは、かつて匈奴が服属させた東胡の末裔と言われる鮮卑によって吸収されます。
ここまでが、三国時代に至るまでの匈奴の略歴です。三国時代において、匈奴とは南匈奴を指し、かつて前漢を脅かした匈奴の存在は既にないことが分かります。後に、南匈奴は、五胡十六国時代に、前趙、夏、北涼を建国し、漢化を進めます。南北朝時代になると鮮卑出身の北魏が華北を統一し、北方には柔然が新しい異民族集団として台頭したため、南匈奴の諸部族は鮮卑化、あるいは漢化して、集団としての南匈奴は消失します。
鮮卑
前漢の初期に、匈奴の冒頓(ぼくとつ)によって攻撃された東胡が、東に逃れたのが鮮卑の原型とされます。鮮卑は長らく匈奴に服属を強いられましたが、匈奴が弱体化するにつれて勢力を伸ばし、後漢の遠征によって北匈奴が消滅すると、権力的空白を埋めるように鮮卑が進出し、匈奴の勢力の大部分を吸収します。桓帝の時代に鮮卑の最盛期を作ったのが檀石槐です。北匈奴に代わって台頭した鮮卑の勢力を恐れた後漢は、張奐を派遣して、これを攻撃しますが、弱体化することはできませんでした。
おそらく、三国時代において、半ば定住化していた南匈奴や烏桓とは違い、鮮卑は最も強力で純粋な遊牧民族として存在していました。五胡十六国時代には、前燕、後燕、南燕、南涼、西秦といった数多くの国を建国し、後の統一王朝である隋や唐も、鮮卑系の出身であるとされます。鮮卑は三国時代以降、徐々に漢化していき、モンゴル高原の異民族国家としての勢力は柔然(じゅうぜん)(5世紀ごろ)に取って代わられます。
烏桓
鮮卑と同じように、匈奴に攻撃された東胡の末裔が烏桓の原型とされます。実際に、言語や習慣などにおいて、烏桓はほとんど鮮卑と同じです。三国志では、烏桓は烏丸としても表記されます。烏桓は鮮卑と同じように、長らく匈奴の支配にさらされましたが、匈奴の弱体化によって鮮卑が大きく勢力を伸ばしたのに対し、烏桓は後漢の内地への定住化が進み、後漢へ服属します。
三国時代には、曹操に対抗した蹋頓(とうとん)の存在が有名です。鮮卑と烏桓は、どちらも東胡の末裔であり、鮮卑が北匈奴に代わってモンゴル高原の覇権を握ったのに対し、烏桓は早くから漢化を進めたという点において、その生き残り戦略は対照的です。烏桓は他の異民族に比べて、漢化が早く、モンゴル高原の覇権を握らなかったという点は、烏桓の異民族としての存在の消滅を早め、西晋以降は記録がなくなります。
羯
三国志を知っている人でも、羯の存在を知る人はマイナーではないでしょうか。実際に、羯は匈奴や鮮卑などと比較して小規模であり、南匈奴の羌渠種の後身とされます。三国時代には異民族としての羯は認知されておらず、南匈奴として一括りにされていたと思われます。しかし、羯は五胡十六国時代に後趙を建国するという点で重要です。
氐
青海湖の近域で遊牧生活を行ったチベット系民族です。元々は、三国時代における益州から涼州、雍州一帯に暮らしていましたが、中華圏の勢力拡大とともに、徐々に西方へ追いやられ、前漢の武帝の時代には青海湖周辺を拠点としていました。
五胡十六国時代には成漢、前秦、後涼を建国します。その後は、チベット民族や漢民族に同化していき、隋代以降は記録がなくなります。
羌
氐と同じくチベット系の民族とされ、その出自も氐と似ています。実のところ、氐と羌の違いはよく分かりません。戎(古代中国の西から北にかけて分布した民族)の無弋爰剣(むよくえんけん)なる者の一族が、羌の原型となったとされます。氐と羌は同じチベット系とはいえ、異なる出自を持つ異民族だったと思われますが、古くから中華文化と交流してきたことから、三国時代にはすでに明確な由来は失われてしまったようです。
五胡十六国時代には後秦を建国しました。唐の時代には羌の中でもタングートと呼ばれる種族が勢力を伸ばし、後に西夏を建国します(11世紀ごろ)。
山越
南の山岳地帯に住んでいた民族です。三国時代にはたびたび登場しますが、逆に三国時代以外ではその記録はありません。元々、江南の山岳地帯に土着していた越人が主体だったと言われます。三国時代には呉が江南に勢力を張ったように、江南への漢文化の進出は早くから進み、山越も漢文化に同化していきました。
まとめ
三国時代の異民族の認識は以下の通りとなります。
- 匈奴
- 全盛期の匈奴は既になく、并州近縁の内地で半分定住した南匈奴がいた
- 鮮卑
- かつての匈奴の勢力を吸収した、三国時代におけるモンゴル高原の覇者
- 烏桓
- 鮮卑と出自を同じくするが、幽州各地に定住した
- 羯
- 三国時代は南匈奴の一種族。後に後趙を建国
- 氐
- 涼州、益州の近縁に定住した
- 羌
- 涼州、益州の近縁に定住した
- 山越
- 江南の山岳地帯に定住した先住民族。呉の発展に伴い漢文化に同化した
以上です。 三国時代の異民族について、少し馴染めたような気がしませんか。