前涼

publish: 2020-12-31, update: 2021-10-06,

概要

前涼は、河西回廊を領した自立勢力です。 西晋の張軌が、涼州刺史として赴任し、その地位を世襲したことが、その勢力の始まりです。 統治期間は、301年から376年の75年間です。

特徴

半独立

前涼では、歴代の君主で皇帝を称したものはおらず、前涼は一貫して西晋、および東晋へ臣従しました。 ただし、隣接勢力であった、前趙、後趙、前秦に対しては、武力で争いつつも、時には従属する二重外交を展開しています。 従属はしても、そのまま宗主国に統合されることは無く、前涼が独立した勢力を維持できたのは、領土が西域に近い辺境であったという地理的な影響があります。 なお、君主たちが称したのは最高で王位までです。

前涼がいつから成立していたのかという点については、意味、および観点に応じて複数の根拠を考えることはできますが、結局のところ、前涼は積極的に独立、建国を標榜したことが無く、思想として漢族の正統と認めた東晋への臣従を続けたため、成立年についての議論は大きな意味を持ちません。 偏った言い方をすれば、東晋に臣従していたのであれば、国家や王朝としての前涼は、そもそも存在しなかったとすら表現できます。 ただし、前涼は五胡十六国の定義に明確に含まれ、その由来は北魏の崔鴻が私撰した『十六国春秋』にあります。 前涼という勢力の始まりは、張軌が涼州刺史として赴任した、301年が妥当でしょう。

華北が胡族の王朝に支配される中で、長らく漢族としての統治を行った点で、前涼は五胡十六国の中でも稀有の勢力です。 後に、前涼は前秦によって滅亡し、後涼、そして北涼、南涼、西涼へ分裂しますが、特に漢族と胡族の軋轢が、その統治形態に大きく影響したことは、前涼による漢族の統治が前提にあります。

主な出来事

成立から滅亡まで

前涼は中原を支配しなかったこともあって、ひとまず重大な出来事は多くありません。 その始まりである、張軌と張寔、張茂の親子、兄弟の結束は強く、それが、前涼としての自立性の強い勢力の基盤となっています。 前涼の成立以前、張軌は散騎常侍、張寔は驃騎将軍と、共に中央の顕職に任じられていましたが、張軌は中央の乱れを恐れて、自らの地元である涼州刺史への赴任を希望し、朝廷に認められます。張軌の子である張寔も、辞職を願い出て、父の後を追います。 張軌が病で政務を取れなくなると、張茂が代行するなど、家族内に綻びがありません。 張軌の跡を継いだ張寔は、残念ながら横死しますが、子の張駿はまだ幼かったため、弟の張茂が継いでいます。 このとき、張茂は張駿を世継ぎに決め、権力のつつがない継承を実現させました。

こうした基盤があって、張駿、およびその子の張重華の代が、前涼の最盛期となります。 折しも、この頃は、前趙と後趙の係争、後趙の滅亡、前秦と前燕の係争という、華北の混乱期に当たっており、前涼が長らく領土を保持できた理由でもあります。

しかし、張重華の治世の末年から彼の死後、前涼は衰退を始めます。 張祚が幼い張耀霊を君主として推戴して権力を握り、これをきっかけに前涼では、内訌が続きます。 さらに、前秦は前燕を滅ぼして(370年)、中原の支配に成功したため、前涼への外圧も高まります。 前秦の前涼征伐が起こると(376年)、前涼はこれに抗えず、張天錫の降伏によって滅亡します。

張天錫は、その後、苻堅に助命されており、前秦が淝水の戦いで流星のごとく消え去ると、東晋に亡命して余生を全うします。 東晋での扱いは厚いものでしたが、国を滅ぼしたことから朝野において軽んじられる事も多く、精神を病んだとも記録があります。 子の張大豫は、旧領において王穆に匿われて、後に後涼を建てる呂光と覇権を争いますが、敗れて処刑されます(387年)。 東晋に亡命して、いまだ存命であった張天錫が、自らの子の死を知ってどう思ったことか。 精神を病んだとしても、些か理由の分かるところではあります。

君主系図

  • 張軌 1
    • 張寔 2
      • 張駿 4
        • 張祚 7
        • 張重華 5
          • 張耀霊 6
          • 張玄靚 8
        • 張天錫 9
    • 張茂 3
諡号姓名生年即位退位没年即位年齢没年齢在位期間
1武公張軌255301314314465913
2昭公張寔27131432032043496
3成公張茂27732032432443474
4文公張駿307324346346173922
5桓公張重華33034635335316237
6哀公張耀霊34335335335510120
7張祚?353355355??2
8沖公張玄靚3503553633635138
9張天錫346363376406176013

歴代君主

張軌

255年-314年。字は士彦。前涼の創建者。武公。八王の乱により中央が乱れると涼州刺史を望んで赴任した。涼州に独自の勢力を築いたが一貫して西晋への臣従を貫いた。洛陽失陥以後、前趙の首都平陽の攻略の計画するが実行されなかった。病のため死去。

張寔

271年-320年。字は安遜。前涼の第2代君主。昭公。張軌の長男。西晋の驃騎将軍であったが、中央を辞して父が治める涼州へ帰還した。張軌の死後その地位を継ぐ。愍帝が降伏するにあたって司馬睿とともに後事を託された。邪教を信奉する配下に背かれ殺害された。

張茂

277年-324年。字は成遜。前涼の第3代君主。成公。張軌の次男。張寔殺害の主犯である劉弘らを処刑した。張寔の子である張駿を後嗣に指定して張寔の後を継いだ。前趙の西進を撃退しつつも前趙へ臣従し、硬軟織り交ぜて自立を保持した。病により死去。在位5年。

張駿

307年-346年。字は公庭。前涼の第4代君主。文公。張寔の子。張茂の跡を継ぐ。このとき前涼は東晋と前趙の両国に臣従していたが、前趙が後趙に対して劣勢になると前趙から受けた官爵を廃した。涼州・河州・沙州を定め前涼の最盛期を現出した。病により死去。在位22年。

張重華

330年-353年。字は泰臨。前涼の第5代君主。桓公。張駿の次男。張駿の跡を継ぐ。張駿の死を好機ととらえた後趙に領土を侵されるが国威を維持し続けた。後趙が滅ぶと勃興した前秦と争った。徐々に政務を怠り佞臣を蔓延らせた。病のため死去。在位8年。

張耀霊

343年-355年。字は元舒。前涼の第6代君主。哀公。張重華の次男。張重華が病を患うと10歳で世子に立てられる。張重華は謝艾に後見を任せようとしたが、遺詔は捏造され張祚に摂政が委ねられた。幼年を理由に張祚に廃され復位の兆しが出ると殺害された。

張祚

?-355年。字は太伯。前涼の第7代君主。威王。張駿の庶長子。張重華の遺詔を隠匿し自らを張耀霊の後見とし権力を掌握する。後に位を簒奪し、王を称した。乱暴で政治を顧みず人心を失ったため、張瓘・宋混らの反乱を招き殺害された。

張玄靚

350年-363年。字は元安。前涼の第8代君主。沖公。張重華の末子。張祚が殺害されると宋混らに擁立される。幼年で跡を継いだため張瓘、宋混、張邕、張天錫と摂政を巡って権臣たちの勢力争いが続いた。最後は張天錫によって殺害された。在位9年。

張天錫

346年-406年。字は純嘏。前涼の第9代君主。悼公。張駿の末子。張邕が政治を壟断したおり武力をもって張邕を自殺に追い込んだ。まもなく張玄靚を殺害し位を奪った。前秦の攻撃を受けこれに降伏した。在位13年。淝水の戦いでは東晋に降伏し半生を建康で過ごした。

主な宗族

張瓘

?-359年。宗族だが系譜は不明。張駿の代に、寧戎校尉、河州刺史を歴任して強勢を作った。張祚討伐のための挙兵を成功させ、張玄靚の輔弼の筆頭となった。宋混を恐れて誅殺しようとしたが、事前に察知した宋混の攻撃を受け、自害した。猜疑心が強く、苛虐であった。

主な人物

宋混

?-361年。字は玄一。敦煌郡の人。代々、当地の豪族で、張重華の代に驃騎将軍まで昇る。忠義に厚く、人望を集めた。張祚の誅殺を掲げて張瓘が挙兵すると、呼応して挙兵し張祚を処刑した。張重華の末子・張玄靚を推戴し輔弼した。張瓘を害意を察知して決起し、張瓘を敗走させて自害に追いやった。病没。

張邕

?-361年。前涼の右司馬。幼い張玄靚を輔弼したが、やがて宋混が亡くなると、宋澄一族を誅殺して朝廷を壟断した。政治を乱したため、前涼の衰退を加速させた。張天錫と争い、進退に極まり自害した。一族は誅殺された。傲慢な人物と評が残る。

Page(/dynasties/301_前涼/_index.md)