成漢

publish: 2021-06-13, update: 2021-11-08,

概要

名称成立滅亡期間
成漢30434743

成漢は、益州、蜀の地に自立した勢力です。 巴氐族の李雄が成都王を称して元号を立てたのがその始まりです。 統治期間は、304年~347年の43年間です。

成漢は通称で、当初の国号は「大成」、李寿の代に「漢」に改められました。

特徴

独立か従属か

成漢の基盤は常に脆弱でした。その理由はいくつか挙げられます。

  • 李氏は元々、秦州の氐族であり、その母体が流民集団であったこと
  • 氐族は鮮卑と比べて漢化が強く、統治基盤に漢族的価値観が多かったこと
  • 勢力が四川盆地の中で孤立し、東晋と隣接していたこと

このため、成漢の統治は全般を通して独立派と(東晋への)従属派で常に割れることになります。 全盛期であった李雄の時代ですら、左記のとおりであり、前涼の張駿が李雄に修好を求めるにあたって東晋への従属を促したときには、李雄はその論調に協調しました。 また、李雄は皇帝を称しましたが、一方で東晋へ朝貢も行いました。

李雄の死後、国威に陰りが見え始めると、従属論はより強まります。 第4代皇帝である李寿は、自らが即位するにあたって元々「大成」であった国号を「漢」に改めています。 解思明は李寿が皇帝に昇ろうとする際に、「数年の皇帝と、代々の諸侯のどちらが良いか」と諫言しています。 つまり、李寿は従属する最大の機会を捨てて、皇帝であることを決意した人物でした。 改号はその決意の重さと、人心掌握の表れとも取れます。

主な出来事

難民の首領

李氏は氐族であり、張魯の統治時代に巴西郡へ移住し、曹操の代に略陽郡へ移住しています。 この頃に、自らを巴氐族として自認したようです。 多くの異民族がそうであったように、巴氐族も時の中華王朝に臣従し、李慕の代には西晋の東羌猟将なる官職を務めています。

同じく氐族であった斉万年が関中を巻き込んで反乱を起こすと(296年)、秦州、雍州には大量の難民が発生しました。 この反乱は、梁王・司馬肜や、左積弩将軍・孟観の討伐によって鎮圧されるものの(298年)、発生した難民への対処は無く、多くの難民が隔絶していた益州へと流入しました。 当初、西晋朝廷は、難民が好き勝手に移動しないよう、侍御史・李苾を派遣してその動向を監視させましたが、膨れ上がった難民には手の施しようがなく、難民の移動を禁じなくなりました。 このとき、難民を主導し人望を集めたのが李氏一族でした。 李氏の兄弟はいずれも優れた人物で、特に主導的立場に立ったのが李特です。

当時、益州刺史を務めていた趙廞は、大長秋に任じられて中央へ召還されていました(300年)。 ところが、折しも中央では賈南風を始めとする一党がことごとく誅殺されて間もないときであり、賈氏一族と婚姻関係にあった趙廞は、禍を恐れて召還に応じず、政治的孤島とも言える益州で自立を目論むようになります。 趙廞が益州を支配するにあたってまず利用したのが、益州に流入しつつあった難民でした。 趙廞は李特らを懐柔して、難民勢力を私兵とするようになります。

趙廞の後任として益州刺史に着任したのが耿滕です。 耿滕はこの状況を憂いていち早く上奏し、趙廞と難民たちへ対抗しましたが、趙廞は明確に反旗を翻し対抗勢力をことごとく滅ぼします。 このとき、趙廞の乱を成功せしめたのは、李特ら難民の働きであることは言うまでもありません。

当面の統治が形を成してくると、趙廞は疑心を内側へ向けるようになります。 趙廞の配下としてよく働いた李氏の兄弟は、いずれも人心を掴むのに長け、その勢力は大きかったため、また異民族の出身であるために、その力が必ずしも自分のものではないことを恐れたのです。 あるとき、李庠が趙廞に面会すると、趙廞は李庠を捕えて処刑します。 趙廞の計画は李氏の勢力を奪うことだったのでしょうが、その計画は結果論とは言え粗末なものでした。 弟の死を知った李特は綿竹にて挙兵し、成都の趙廞を攻撃しました。 趙廞は軍を派遣するものの李特に敗れ為す術がありませんでした。

羅尚との対立

耿滕、趙廞の死によって空白となった益州刺史に着任したのが羅尚です。 羅尚は難民たちに対し、解散して本貫へ帰郷するよう通達します。 難民を統率する李特にとって、なによりも苦心したのは難民たちへ当面の衣食住を与えることでした。 李特は再三、帰郷を延期する歎願を行っていましたが、羅尚は一定の理解を示すもののその意向を覆すことはありませんでした。 さらに、状況のぬるい推移を歯がゆく思う、羅尚配下の辛冉、李苾らが独断で難民を攻撃したため、羅尚も攻撃を追認せざるを得ず、羅尚と李特の対立が明確となります。

李特は羅尚相手に優勢を維持しました。 河間王・司馬顒は、督護・衛博、広漢郡太守・張徴、南夷校尉・李毅などを救援に当てますが、李特の勢力は一向に収まる兆しがありませんでした。 羅尚は成都少城を奪われて成都太城へ籠城せざるを得なくなり、講和すらも模索するようになります。

大勢が決したと見た州内の各豪族は李特に対して降伏します。 このとき、李特は使者を派遣して慰撫のために食糧を供出し、これにより軍内の食糧が欠乏したため、軍を分散させました。 これを目ざとく察知したのが羅尚でした。 羅尚は期日を決めて奇襲を行い、これにより李特は大敗し自らも戦死します。

その後、跡を継いだ李流も間もなく病没する憂き目にあいますが、それでも勢力が失墜することはなく、李雄が跡を継ぎます。 その間も、西晋朝廷は荊州刺史・宗岱などに救援を命じますが、それらの救援は断続であり、やがて孤立した成都は陥落します。 羅尚は逃走し、益州の実権は李雄に渡りました。 なお、羅尚は、拠点を巴郡に移してその後も成漢と争うことになります。

独立と拡大

建国当初は四川盆地を支配するだけの勢力でしたが、李雄は、311年に羅尚亡き後の巴郡を支配し、314年には梁州刺史を自称した仇池の楊難敵を攻撃して漢中を支配します。 当時、西晋は前趙の攻撃に晒されて瓦解寸前の状態であり、東晋も今まさに一つにまとまろうという時でした。 成漢の勢力拡大は西晋の軍事的空白の中で成し得たことでした。

李雄の死

334年、李雄は病に没します。その治世は31年間になります。 李雄は生前、皇太子として自らの子ではなく、兄の子である李班を指名していました。 これには皇統を嫡流に戻そうとする思想がありました。 この立太子に対して、親族の李驤は、李雄の治世が長いことや、子が多いことから、簒奪の兆しを恐れて反対していました。 しかし、李雄の死後、即位したのは甥の李班でした。 これに不満を持ったのが、李雄の子である李越と李期でした。 李班は博学で良識と節度を持つ一方で、どこか悠長で警戒心に欠け、時に必要な苛烈さと厳しさを持ち合わせませんでした。 李班は、李玝、韓豹らに警戒するよう諫められましたが、乗じた李越によって殺害されました。

李越と李期による簒奪劇は、宗族たちを大きく動揺させました。 一族の中でも重鎮にあった李寿は、始め李越、李期に従っていましたが、ほどなく警戒されるようになり対立します。 李寿には多くの支持者があり、任地の涪城から成都へ進軍すると、攻撃を予想していなかった李越には為す術がありませんでした。 李寿は成都を制圧したうえで、奸臣を除くべしとして李期に上奏したため、李期は李越を処刑せざるを得ませんでした。 さらに、李寿は太后の命を称して李期を廃し、自らが皇帝に即位しました(338年)。 李期の治世は短命ではありましたが、それでも4年間という期間になります。 李寿が、実権を掌握するにあたって、皇帝として自立する派閥と、諸侯として東晋に従属する派閥がありました。 この、東晋従属論と成漢独立論は、李寿だけでなく、李雄の時代にも一貫してあった論調で、成漢の王朝としての特徴でもあります。

滅亡

李寿の治世は、概ね評価できます。 彼自身が倹約を美徳とし、寛大な政治を心がけたからです。 これは、李雄の代から続く方針でもありました。 ただし、この頃、華北では後趙の石虎が多大な出費をともなく苛烈な政治を行っていたため、これに影響された李寿は徐々に暴政を布くようになります。 治世5年にして李寿は病没し(343年)、子の李勢が後継として即位します。

李勢の治世は、李寿の悪政を引き継いだようなもので、粛清と反乱が絶えなくなります。 347年、東晋の大司馬・桓温が成漢へ進撃すると、李勢は降伏します。 李勢は助命されて、東晋から帰義侯に封じられました。

帝室系図

  • -
    -
    李慕
    • 1
      -
      李特
      • -
        -
        李蕩
        • 4
          -
          李班
      • 3
        -
        李雄
        • 5
          -
          李期
    • 2
      -
      李流
    • -
      -
      李驤
      • 6
        -
        李寿
        • 7
          -
          李勢

歴代君主

李特

?-303年。巴氐の出身。斉万年の乱の時、流民となり蜀に移住する。趙廞の乱ではこれに従うが、趙廞が彼の弟を殺害したために、逆に趙廞を殺し実質的な蜀の支配者となる。のち益州刺史として赴任した羅尚と対立し、改元・自立を宣言した。羅尚に対して一時は優勢を維持するも戦死した。

李流

248年-303年。巴氐の出身。兄の李特に従い流民と共に転戦した。李特が戦死すると李特の勢力は大きく動揺したが、甥の李雄らの武勇もあって羅尚を救援する荊州軍を撤退させた。しかしまもなく病が篤くなり、李雄を後継者に指名して死去した。兄李特の戦死から僅か七ヶ月後であった。

李雄

274年-334年。巴氐の出身。成漢の創設者。武帝。益州刺史羅尚を撤退させ成都を完全に制圧すると、成都王を称して成漢を成立させた。断続的に東晋と係争し漢中・巴東・寧州を攻略する一方で、前涼の張駿が東晋への臣従を勧めたときには一定の理解を示した。在位は30年に及ぶ。

李班

288年-334年。成漢の第2代皇帝。哀帝。李雄の兄李蕩の子。時の皇帝李雄の甥であったが、李雄は兄李蕩こそが正当な継承者と考えていたため立太子される。李雄の死後その後を継ぐが、皇位継承に不満を持った李雄の子李越に暗殺される。在位は1年に満たない。

李期

314年-338年。字は世運。成漢の第3代皇帝。幽公。初代皇帝李雄の四男。兄の李越と共に第2代皇帝李班を殺害し即位する。奸臣を重用し悪政を敷いたため国力の衰退を招いた。成漢の重鎮李寿が奸臣の排斥を名目に軍を起こすと、廃位され邛都県公に落された。在位5年。

李寿

300年-343年。字は武考。成漢の第4代皇帝。李特の弟李驤の子。軍を率いて成都に迫り奸臣排斥を上奏して李越らを処刑させた。さらに李期を廃して邛都県公に落とすと自ら皇帝に即位した。東晋に対する自立と臣従で国政が割れる中、徹底して帝位を維持した。後に病死。在位5年。

李勢

?-361年。字は子仁。成漢の第5代皇帝。李寿の子。李寿が死去するとその後を継いだ。政治を顧みなかったため国を乱し、ついに東晋の攻略を受ける。大司馬桓温を自ら迎撃するが連戦連敗を喫し葭萌城にて降伏した。在位5年。東晋より帰義侯に封じられ建康で没した。

主な宗族

李庠

247年-301年。字は玄序。李慕の子。李輔、李特の弟。李流、李驤の兄。郡の属官として仕えたが任官を固辞した。斉万年の乱では流民となって蜀へ渡るが、任侠心が強く人望を集めた。趙廞が決起するとこれに従うが、趙廞に勢力を恐れられて誅殺された。

李蕩

?-303年。字は仲平。李特の子。父に従って益州に入り、李特が羅尚と対立すると共に戦った。羅尚の奇襲により李特が戦死した後も、李流の指揮下で抗戦した。羅尚の勢力を覆す善戦をしたが傷がもとで没した。学問に通じ容姿が美しかった。

李輔

?-303年。字は玄政。李慕の子。李特の長兄。巴氐族の出身。略陽郡臨渭県の人。斉万年の乱が起きると一族が蜀へ避難するなか実家に留まった。趙廞が乱を起こすと弟たちと合流し乱を鎮めた。李特が自立を強めて羅尚と対立すると驃騎将軍となったが、羅尚の奇襲を受けて李特と共に戦死した。

李驤

?-328年。李慕の子。李輔、李特、李庠、李流の弟。一族と共に益州に入り兄弟たちと各地を転戦した。一族の多くが戦死する中、益州刺史・羅尚や荊州軍と戦った。都督中外諸軍事、大将軍、領中護軍、西夷校尉、録尚書事などの重職を歴任した。李班の立太子に反対したが叶わなかった。病没。

主な人物

閻式

?-309年。天水郡の人。閻彧とも。李特たちが難民を連れて益州へ移るとこれに従った。益州刺史として羅尚が着任すると李特の使者として度々往来し、難民側の主張を羅尚に伝える一方で、羅尚から李特への懐柔の窓口となった。李雄の代に尚書令まで昇るが、配下の訇琦、張金苟に殺害された。

范長生

?-318年。字は元寿。涪陵郡丹興県の人。天師道の教祖。蜀の八仙の一人。李特らが益州に入って羅尚と対立したとき、青城山に拠点を構えていたため、羅尚の下で汶山郡太守に任じられた。食糧を供給して李流を支援し、李雄に従って丞相まで昇った。病没。

解思明

?-345年。出自は不明。李寿の長史に任じられた。李寿が皇帝・李期と対立すると羅恒とともに謀り、成都を占拠して李期を廃し東晋に従属することを進言した。李寿の死後、李勢の後継として皇太弟を立てることを求めたため、李勢の怒りを買って処刑された。諫臣。

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