前趙
publish: 2020-07-27, update: 2021-10-06,
概要
前趙は、南匈奴出身の劉淵が西晋から独立して建てた王朝です。 その統治期間は、304年~329年の25年間で、五胡十六国時代の先駆けとなりました。 劉淵が建てた国号は正式には「漢」、後に劉曜が「趙」に改めています。 前趙という呼称は、石勒が建てた「趙」を「後趙」として区別するものです。
当サイトでは、劉淵が建てた「漢」の時代も含めて「前趙」と呼称しています。
特徴
南匈奴
創建者の劉淵は、匈奴(きょうど)屠各種(とかくしゅ)攣鞮部(れんていぶ)の出身です。 この頃、劉淵が劉姓を名乗っているのは、南匈奴が既に強く漢化していたためです。
そもそも、匈奴は前漢の時代に強勢を誇り、一時は前漢を武力で臣従させるほどでした。 しかし、時と共に勢力は衰え、後漢の前期になると匈奴は南北に分裂します。 その後、南匈奴は積極的に漢化して北匈奴と対立するとともに、匈奴に臣従していた鮮卑が北匈奴と交代するように伸長したため、勢力としての北匈奴は後漢中期には消失します。 劉淵の時代には、北方は鮮卑が専ら台頭することになります。
三国時代の初期、曹操は、南匈奴を左、右、南、北、中の五部に分割し、護匈奴中郎将と共に并州刺史に管轄させました。 この体制は西晋でも継続され、劉淵の父・劉豹は左部帥として左部匈奴を統率しました。 劉淵は半ば人質として西晋の洛陽を留学し、その後、左部帥の代行や北部帥を経て、五部大都督、左賢王に任じられます。
永嘉の乱
永嘉の乱は、年号である永嘉年間に発生したいくつもの乱を総称したものですが、実質は劉淵の挙兵に始まり、西晋を滅亡に追いやった事柄をもって、永嘉の乱と定義します。
歴史的な結果として、前趙は国家としての体裁を成しましたが、劉淵が挙兵した当初は、西晋にとって、その勢力は続発する反乱の一つにすぎませんでした。 反乱の首謀者は、多くの場合、皇帝などの尊称を自称し、元号を建てて新国家であることを喧伝します。 一方で、反乱が鎮圧されてしまえば、自称はただの僭称となり、皇帝の称号や元号に意味は無くなります。
歴史を後から見てみれば、永嘉の乱は王朝同士の戦いのように見えますが、 それは、劉淵の反乱勢力が、西晋を滅ぼすに至ったからです。 乱という漢字の語義は、みだれる、とあります。乱の指導者は常にそうであるように、劉淵の目から見れば、よほど西晋の弊政こそが世を乱していたように見えていたことでしょう。
主な出来事
独立
304年、劉淵の従祖父である劉宣は并州にあって、鄴にあった劉淵を密かに単于に推戴しました。 これは、八王の乱により弱体化した西晋から、独立を志向したものでした。 このとき、劉淵は司馬穎の配下にありましたが、劣勢に追い込まれていた司馬穎を救援する口実で、匈奴勢力が集結する左国城へ入ることに成功します。 これをもって、劉淵は劉宣と合流し、単于として匈奴を率いて自立します。
同年、劉淵は、国号を「漢」として漢王に即位します。 これは、かつて冒頓が前漢の皇族を娶って前漢の兄弟を称したことから、自らを漢の後継者として自認したものでした。 漢には、劉備が建てた蜀漢も含まれており、劉禅に対して孝懐皇帝(懐帝)を追尊しています。 劉淵が皇帝に即位するのは308年のことです。
劉淵の勢力拡大は目覚ましく、并州刺史の司馬騰は敗北を重ねて、拠点を晋陽から鄴へ移します。 後釜として劉琨が司馬越の命で并州刺史に任じられますが、劉淵の勢いを止めることはできませんでした。 この頃、王弥や石勒が劉淵の傘下に入ります。
308年、劉淵は河東に進み、平陽、蒲坂、蒲子を陥落させていくと、河北攻略あたった石勒も鄴を陥落させ河北に足掛かりを得ます。 一方、西晋では、并州刺史の劉琨と、幽州刺史の王浚が健在でした。両者は共に西晋の藩屏として石勒と戦いますが、劉琨と王浚も互いに対立したため、317年までに河北は石勒によって制圧されることになります。
劉淵の死
310年、洛陽攻略を目前にして、劉淵が病没します。 跡を継いだのが子の劉和です。 ところが、劉和の在位期間はわずか6日間です。 劉和は、弟である劉聡、劉乂、劉隆、劉裕の軍権を取り上げて粛清しようとしため、逆にこの謀略を察知した劉聡らによって殺害されたのでした。 この背景には、劉和の外戚である呼延攸と、宗室の劉鋭の画策があり、呼延攸らは、不遇であった自らの立ち位置を回復させようと、劉和の猜疑心を煽ったのでした。 呼延攸らは、劉隆、劉裕の殺害には成功するものの、劉聡によってことごとく処刑されます。
洛陽陥落
311年、司馬越は石勒討伐のために洛陽を出陣します。 しかし、懐帝・司馬熾が、苟晞に対して司馬越討伐の勅命を出すと、これを知った司馬越は憂憤のうちに病没します。 司馬越は朝廷を専横していたため、司馬熾によって疎まれていたのです。 司馬越には、専横を強めていたとはいえ、度重なる政争によって疲弊した西晋を、辛うじて支えていた側面がありました。 司馬越の死後、配下の王衍や司馬範は、責任を恐れて、残された軍の指揮を執ることを辞退したため、石勒討伐のために出陣していた司馬越の軍は、指揮官不在のまま、司馬越の封国である東海へと向かいました。
石勒はこれを見逃さず、好機を捕えて攻撃したため、司馬越の軍は瞬く間に敗れました。 これにより、西晋の主力軍はほぼ消失し、従軍していた諸王や重臣は、石勒によって処刑されることになります。 司馬越の死の僅か2か月後、洛陽は陥落して、司馬熾は平陽へと拉致されることになります。
このときをもって、西晋は事実上滅亡したと解釈できます。
西晋の滅亡
一方、司馬熾の甥である司馬鄴が、洛陽の陥落と共に皇帝に即位します。 西晋の威令も届かないまま洛陽を失陥した状況では、司馬鄴の政権は長安の一地方政権ほどの実力しかありませんでした。 劉聡は劉曜に命じて、執拗に長安を攻撃させます。 5年間に渡って、前趙をしのいだ事実は、まだ西晋に一定の力があり、全くの無力ではなかったことを示しています。 316年、五度にわたる長安の攻防を経て、劉曜は長安を陥落させます。 前趙は、中原の全域をほぼ掌握しました。
靳準の乱
318年、劉聡が病死します。代わって即位したのが、子の劉粲です。 劉聡は多くの后妃を持ちましたが、その中に靳月光と靳月華という皇后がいました。 二人はともに容色に優れたため、ことさら劉聡の寵愛を受け、二人を娘に持つ靳準は外戚として権勢を強めていました。 また、生前の劉聡の政治は、決して評価されたものではありません。 王沈ら佞臣を厚遇して改めなかったため、王鑒や崔懿之は、靳準と王沈を名指しして、国の患いだと評しています。 腐敗した朝廷を引き継いだ劉粲もまた、自堕落であったため、靳準らの専横はますます強まり、賢臣は誅殺され続けました。
劉粲即位の同年、靳準は決起します。靳準は劉粲を捕えて処刑し、宗族を虐殺して、漢天王を自称しました。 しかし、靳準の挙兵はあくまで、首都・平陽に限定されたもので、靳準自身も不安定な地盤を憂慮して、東晋の司州刺史・李矩に、帰順することを打診するほどでした。 果たして、長安の劉曜は皇帝に即位し平陽に迫るとともに、襄国に居た石勒も呼応して靳準討伐の軍を勧めます。 劉曜は靳準に降伏を進めましたが、既に劉氏一族を多く殺していた靳準は降伏することができませんでした。 降伏を躊躇した靳準は配下に見限られて殺害され、残党は降伏します。
靳準の反乱は、前趙の政治腐敗の結果であり、勢力を拡大し続けてきた前趙の失速を意味するものでもありました。 靳準は皇帝の劉粲をはじめ、前趙の宗族を多く殺しました。 劉曜が迅速に政権を回復させたとは言え、前趙の朝廷の力は大きく弱まったことは事実です。 このため、実質として前趙は靳準によって途絶したとみることもできます。 劉曜が、平陽から長安へ遷都して、正式な国号を「漢」から「趙」へ改めたのもこのときです。 前趙に斜陽を感じつつある人心を、再び繋ぎ留めようとした劉曜の苦心を垣間見ることができます。
318年は、劉聡の死をきっかけに、前趙に溜まった膿が一挙に破れ出た年です。 318年から319年にわたる期間だけで、劉聡の病没、靳準の反乱、劉粲の横死、劉曜の即位、遷都、国号の改称が起きています。 そして、もう一つ、前趙の国威を揺るがしたのが、石勒の離反です。
石勒の独立
319年、石勒が前趙から自立します。 もともと前趙が急成長した背景には、石勒が太行山脈以東で、西晋の諸勢力や、独自の反乱勢力を駆逐してきた結果が大きくあります。 前趙における石勒の功績は絶大であり、石勒の勢力は前趙の中で半ば自立した存在でした(前漢の韓信を彷彿させる)。 当初は王弥などの石勒に対抗しうる有力者がいたものの、石勒はそれらの政敵の排除に成功し、さらに前趙の朝廷内部が腐敗していったため、石勒の優位性は強まる一方でした。
石勒は独立するにあたって国号を「趙」とします。 同年、劉曜は先だって国号「趙」に改めていたため、ここに二つの趙という国が並び立ちます。 前趙、後趙の名称はこれに由来し、劉氏の趙を前趙、石氏の趙を後趙として区別します。
前趙の国威の低下は結果に現れています。 石勒の離反を皮切りに、路松多、宋始、句渠知、虚除権渠などの離反や反乱が相次ぎます。 前趙は東を後趙に、南を東晋に接しており、西には前涼の前身とも言える西晋の涼州刺史・張寔や、西晋宗族の司馬保が自立していたため、国情は全く安定しませんでした。 劉曜に失政はなく、むしろ前趙を中興させたと評価できるものですが、反乱の収束に追われる前趙は、国力において後趙に大きく水をあけられます。
劉曜の死
324年以降、後趙の司州刺史・石生が進出してきたことから、後趙との争いは激しくなります。 328年、石虎が河東を攻撃すると、劉曜自身が出陣して、蒲坂に駐屯した石虎を撃破して、石虎を朝歌まで撤退させます。 一方、石勒も石虎救援のために洛陽まで出陣します。
この洛陽での戦いで、前趙は敗北をなし、劉曜は石勒に捕らえられます。 結果的に、前趙と後趙のその後を決定づけるものでした。 石勒は、劉曜を後趙の首都・襄国へと移送します。 石勒は、前趙の残党に対して降伏を勧告する書状を、劉曜に書かせますが、劉曜はその意に反して、社稷を維持するよう書状を認めたため、これを知った石勒に処刑されます。
319年、劉曜を失った前趙では、皇太子の劉煕が即位します。 しかし、長安から上邽へ、逃亡同然ともいえる遷都をしていることからも、半ば恐慌状態であったことが窺われます。 長安はすぐに降伏し、劉煕は兄・劉胤に兵を預けて長安を攻撃させますが、逆に石虎に打ち破られる結果でした。 攻め上る石虎に対して為す術がなく、上邽は陥落します。 ここに、前趙は26年目にして滅亡しました。 劉曜の死から1年に満たないものでした。 劉煕、劉胤らは処刑され、ほか屠各種の多くが処刑されました。
前趙帝室系図
- 劉烏利
- 羌渠
- 於夫羅
- 劉豹
- 劉淵 1
- 劉和 2
- 劉聡 3
- 劉粲 4
- 呼廚泉
- 劉宣
- 去卑
- 劉猛
- 劉亮
- 劉広
- 劉防
- 劉緑
- 劉曜 5
- 劉煕 6
- ※左側が年長者です。
- ※数字は皇位の継承順を意味します。
- ※皇位継承に関係のない筋は省略しています。
前趙の系図を調べると混乱します。 羌渠は188年に死にますが、彼の子の一人である劉宣は308年に死去します。 これを真に受けて、仮に劉宣が188年に生まれたとすると、120歳の長命になります。 188年生まれと言えば、孫韶や陸績が挙げられます。
(歴史に忘れ去られた人がたぶんいますね……)
また、劉豹は生没年が不詳ですが、以下の点で結構な長命です。
- 父の於夫羅の没年が195年
- 子の劉淵の生年が251年頃
- 『資治通鑑』では没年は279年
- 蔡邕の娘である蔡琰を娶った
仮に、生年と没年を195年から279年とすると、没年齢は84歳、劉淵を生んだのが56歳になります。いまと比べて遥かに低水準の生活環境を考慮すれば、相当な健康管理の達人と言えるでしょう。ただし、同時代の人物で、92歳の長寿を記録した司馬孚(180年-272年)という例もあるので、辻褄が合わないわけではありません。
羌渠、去卑、劉猛、劉亮の兄弟関係の定義は一定ではなく、従兄弟関係である可能性があり、不明瞭です。 にもかかわらず、この世代の人物には、鉄弗部の祖や、鮮卑化した独孤部の祖、同じく鮮卑の破六韓氏の祖などの重要人物が名を連ねます。 もともと異民族には文字による記録という文化がありませんでしたから、南匈奴が漢化しつつあったとは言え、後世の史家たちは系統を紐解くのに苦労したということでしょう。
歴代君主
劉淵
?-310年。字は元海。前趙の創建者。光文帝。南匈奴の出身。於夫羅の孫、劉豹の子。司馬昭に厚遇を受けるも罪の連座により罷免される。司馬穎より招聘を受けて復職したのち独立して前趙を建てた。八王の乱で混乱する西晋の中原一帯を圧迫し続けた。病没。在位6年。
劉和
?-310年。前趙の第2代皇帝。廃帝。劉淵の子。劉淵の死後その後を継ぐ。外戚の呼延攸に教唆され権力掌握のため宗族の一掃を企てた。しかし計画は疎漏で内部に疑心暗鬼を招き逆に劉聡の攻勢を受けた。劉聡によって捕縛されたのち処刑された。在位僅か6日。
劉聡
?-318年。字は玄明。前趙の第3代皇帝。昭武帝。劉淵の四男。劉淵の死後、帝位は長男の劉和が継いだが劉和は兄弟の誅殺を試みた。事前にこれを知った劉聡は劉和を捕え処刑して皇帝として即位した。洛陽・長安を攻略し西晋を滅亡させるも、後年は国を乱した。病により死去。在位9年。
劉粲
?-318年。字は士光。前趙の第4代皇帝。隠帝。劉聡の次男。都督中外諸軍事、相国などの重要職を歴任した。皇太弟劉乂の存在により長らく皇太子に立てられなかったが、後に劉乂を謀殺し皇太子となる。劉聡の死後、皇帝に即位するも外戚の靳準に謀反され処刑された。在位3か月。
劉曜
?-329年。字は永明。前趙の第5代皇帝。靳準が乱を起こすと皇帝に即位し乱を鎮めた。石勒の離反を始め頻発する反乱に対処するが、洛陽における後趙との戦いで捕縛される。石勒から降伏勧告を命じられるも、社稷を維持せよと勅書したため石勒に処刑された。在位10年。
劉煕
?-329年。字は義光。前趙の第6代皇帝。劉曜の第3子。後趙の洛陽攻略中に父劉曜が捕縛され殺害されたため、長安から上邽へと遷都した。長安回復のため兄劉胤を派遣するが石虎に敗れ、そのまま上邽を攻略する石虎によって処刑された。建国26年目にして前趙は滅亡した。
主な人物
王沈
生没年不詳。宦官として劉聡に仕えた。劉聡が後宮に入り浸って朝政に出席しなくなると、劉聡に代わって朝政を取り仕切り、独断で人事を決裁した。その権勢は斉の易牙、蜀の黄皓に例えられ、多くの良臣を誅殺せしめた。劉聡の死後、事跡は定かではない。
王弥
?-311年。字は子固。王頎の孫。洛陽を留学したとき劉淵と親交を深めた。劉柏根が東莱で挙兵するとこれに従った。劉柏根の死後は青州、徐州を中心に反乱を継続するが、まもなく劉淵に従った。西晋の洛陽を陥落させ、大将軍、斉公まで昇るも、石勒と対立し誅殺された。飛豹と称された。
陳元達
?-316年。字は長宏。匈奴後部の出身。元の名は高元達。長らく仕官せず学問に傾倒して漢文化に詳しかった。顕職を望まず諫言を行い、劉淵から優遇された。劉聡の堕落とともに疎まれるようになり、太宰・劉易の憤死を知ると、前趙の将来に絶望して自害した。
靳準
?-318年。匈奴屠各種の出身。3人の娘を皇后に輩出し、外戚として地位を確立した。皇太弟・劉乂など政敵を失脚せしめた。のちに、第4代皇帝・劉粲を殺害し乱を成した。胡人で天子になった者はいないとし、皇帝ではなく天王を称して東晋への従属を図った。劉曜に包囲されて配下に殺害された。