代
publish: 2021-10-12, update: 2021-11-08,
概要
名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
---|---|---|---|
代 | 315 | 376 | 61 |
代は鮮卑拓跋部の拓跋猗盧が立てた王朝。 315年、西晋の愍帝・司馬鄴が拓跋猗盧を代王に封じたことを始まりとする。 とは言え、北辺にはもとから鮮卑、および鮮卑拓跋部が台頭しており、代の政体は拓跋部から連綿と継続するものである。 また、代は前秦によって滅亡するが、後に起こる北魏は代の血統と領土を基盤とし、代の滅亡から北魏の成立までは、僅か10年ほどである。
主な出来事
鮮卑拓跋部の起源
檀石槐による統一鮮卑は後漢末期に崩壊した。 檀石槐の生没年は不明なものの、その活動期間は156年から184年で、おおよそ桓帝・劉志の治世(146年から167年)に生まれ、霊帝・劉宏の代前後に没したと考えられる。 享年45歳と分かっている。 檀石槐の死後、鮮卑の大人(部族長)の立場はその子や孫に世襲されたが、部族全体の勢いは衰え、鮮卑内の各部族が離散集合を繰り返した。 その中で、勃興した鮮卑部族の一部が鮮卑拓跋部である。
拓跋部は拓跋力微の代から具体的な記録が見える。 なお拓跋力微の生没年は明らかだが、享年103歳と異民族にありがちな長命であり鵜呑みにはしにくい。 拓跋力微はもともと鮮卑没鹿回部の竇賓に従い、互いに補佐と庇護の関係にあるだけでなく、竇賓の娘を拓跋力微の妻とする婚姻関係にあった。 やがて、才能と人徳を発露させた拓跋力微は竇賓の死後、没鹿回部を吸収し、拓跋部を魏晋と修好する規模にまで成長させた。 後世、北魏からは拓跋力微に始祖の廟号が贈られた。
三分割と統一
拓跋力微の晩年(277年)、その勢威を恐れた西晋の征北将軍・衛瓘は、離間工作を行い拓跋力微の長子である拓跋沙漠汗を謀叛の罪で誅殺させたほか、各部族の離反に成功した。 その後、拓跋悉鹿、拓跋綽の在位期間から安定したようにも見えるが、その実情は諸部族の内部抗争の時代であった。 特に、拓跋弗が二人の兄を差し置いて大人となり短命となった背景に、部族間の利権を巻き込んだ複雑で恣意的な意思決定が垣間見える。 これにより、一時期、拓跋部の勢力は衰えたが、一方で西晋内部では司馬炎の死後、八王の乱が始まり衛瓘も粛清されるに至る。 外交上は親晋であった拓跋部を、裏では離間させた衛瓘の深謀には恐るべきものがある。
拓跋部はその後、拓跋禄官の代にようやくまとまりの兆しを掴む。 拓跋禄官は自ら大人となるにあたり、拓跋部の領土を東部、中部、西部に三分割し、自らは東部の大人となった。 中部と、西部には拓跋沙漠汗の遺児を大人につけるあたり、いわば諸族をなだめる苦肉の策と言えよう。 拓跋禄官の死後、拓跋部は拓跋猗盧によって再び統一され、その勢力はそのまま代に引き継がれていく。
拓跋部歴代大人
代 | 諡号 | 姓名 | 生年 | 即位 | 退位 | 没年 | 即位年齢 | 没年齢 | 在位期間 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 拓跋力微 | 174 | 220 | 277 | 277 | 46 | 103 | 57 | |
2 | 拓跋悉鹿 | ? | 277 | 286 | 286 | 8 | |||
3 | 拓跋綽 | ? | 286 | 293 | 293 | 7 | |||
4 | 拓跋弗 | ? | 293 | 294 | 294 | 1 | |||
(東部)1 | 拓跋禄官 | ? | 294 | 307 | 307 | 13 | |||
(中部)1 | 拓跋猗㐌 | 267 | 294 | 305 | 305 | 27 | 38 | 11 | |
(中部)2 | 拓跋普根 | ? | 305 | 307 | 316 | 2 | |||
(西部)1 | 拓跋猗盧 | ? | 294 | 307 | 316 | 13 | |||
(統一)1 | 拓跋猗盧 | ? | 307 | 315 | 316 | 8 | |||
平均 | 13.3 |
代の成立
生まれたばかりの代が安定するには、しかしながら未だしばらくの年月が必要であった。 代の創始者となった拓跋猗盧は後継問題をこじらせて長子の拓跋六脩に殺害される(316年)。拓跋猗盧の統一君主としての在位期間は大人時代を含めて9年ほどである。 その跡を継いだ旧中部大人・拓跋普根も在位僅か1カ月で没し、その後、王に立てられた彼の子は名前も残らない混乱ぶりであった。
これを収拾したのが拓跋鬱律であった。 彼は、諸部族の統一に務め、前趙、および後趙、東晋と軒並み国交を断絶して南征を図る大略を持っていた。 代の勢いは前涼が朝貢するほどであったが、拓跋鬱律の勢威を恐れた人物が内部にいた。 拓跋猗㐌の妻・惟氏である。 惟氏によって拓跋鬱律とその派閥を形成した諸族は殺され、彼女の子である拓跋賀傉が王となる。 拓跋賀傉は間もなく没するが、後継はその弟・拓跋紇那であり、以後、賀蘭部に亡命した拓跋鬱律の子・拓跋翳槐と、宇文部の庇護を得る拓跋紇那による王位の争奪が繰り返される。
この争いは、拓跋翳槐が後趙の庇護に入ったことで後趙の支援を受け、拓跋紇那が前燕に亡命したことで収着する。 拓跋翳槐が弟の拓跋什翼犍を後趙へ人質に出すという、半ば従属した関係ではあったが、背景に後趙の脅威を受けることで部族は統一感を増し、以後、拓跋什翼犍による安定した政権が樹立することになる。 拓跋什翼犍は代の最後の王であるが、最後の王が、長期政権を提供し、国家を安定させ、王朝を最も隆盛させたことは特徴的である。
代の滅亡
拓跋什翼犍の治世は38年におよび、その間に中原では、後趙の滅亡、前秦、および前燕の成立、前燕の南下、前燕の滅亡と、一時代どころか幾つもの時代が過ぎ去った感がある。 拓跋什翼犍はこの間、冉閔の討伐など南下の意欲を持っていたが、諸部族の一致を見ず結果として大規模な遠征は実施されなかった。
前秦が前燕を滅ぼし、前秦による華北統一がいよいよ現実になろうとすると、かねてより造反していた匈奴鉄弗部の劉衛辰らは活動を活発化させ、ついに前秦による代への侵攻を引き起こした。 拓跋什翼犍は応戦したが敗色は強まり、拓跋什翼犍も病を得ると諸部族の離反を招いて撤退が相次いだ。 拓跋什翼犍の最後は史書によって一致せず、庶子の拓跋寔君に裏切られて殺害されたとも(魏書)、前秦に捕縛されて長安に送られたとも(宋書)、前秦に仕えたとも(晋書)される。 前秦の苻堅は亡国の王族や重臣を無暗に殺さなかったため、いずれの結末もありえない話ではない。 事実、北魏の創始者・拓跋珪は拓跋什翼犍の子、あるいは孫と比定され、創業時の重臣には燕鳳、許謙など代の遺臣が多くいた。
代宗室系図
- --拓跋力微
- --拓跋沙漠汗
- --拓跋猗㐌
- 2-拓跋普根
- 3-(不明)
- 5-拓跋賀傉
- 6,8-拓跋紇那
- 1-拓跋猗盧
- --拓跋弗
- 4-拓跋鬱律
- 7,9-拓跋翳槐
- 10-拓跋什翼犍
- --拓跋悉鹿
- --拓跋綽
- --拓跋禄官
代 | 諡号 | 姓名 | 生年 | 即位 | 退位 | 没年 | 即位年齢 | 没年齢 | 在位期間 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 穆帝 | 拓跋猗盧 | ? | 315 | 316 | 316 | 1 | ||
2 | 拓跋普根 | ? | 316 | 316 | 316 | 0 | |||
3 | (不明) | ? | 316 | 316 | 316 | 0 | |||
4 | 平文帝 | 拓跋鬱律 | ? | 317 | 321 | 321 | 4 | ||
5 | 恵帝 | 拓跋賀傉 | ? | 321 | 325 | 325 | 4 | ||
6 | 煬帝 | 拓跋紇那 | ? | 325 | 329 | ? | 4 | ||
7 | 烈帝 | 拓跋翳槐 | ? | 329 | 335 | 338 | 6 | ||
8 | 拓跋紇那(復位) | ? | 335 | 337 | ? | 2 | |||
9 | 拓跋翳槐(復位) | ? | 337 | 338 | 338 | 1 | |||
10 | 昭成帝 | 拓跋什翼犍 | 318 | 338 | 376 | 376 | 20 | 58 | 38 |
平均 | 6.0 |
歴代君主
拓跋猗盧
?-316年。代の初代王。拓跋沙漠汗の子。鮮卑拓跋部。分割されていた拓跋部を再統一した。并州刺史の司馬騰や劉琨に協力して、一貫して前趙と戦った。司馬鄴により代王に封じられた。後に後継問題を起こし、長子の拓跋六脩に殺された。在位1年、
拓跋普根
?-316年。代の第2代王。拓跋猗㐌の子。父・拓跋猗㐌の死後は中部拓跋部を継いだが、拓跋猗盧が三部を統合するようになるとこれに従った。拓跋猗盧が拓跋六脩に殺されると、拓跋六脩を殺して王位を継いだ。間もなく死去。在位は僅か一ヶ月。跡は子が継いだが名は伝わらない。
拓跋鬱律
?-321年。代の第4代王。拓跋弗の子。拓跋猗盧の死後、相続が混乱すると代王に擁立された。各地へ遠征し西は烏孫、東は勿吉を攻略し、鮮卑を北方最強たらしめた。前趙、後趙とも敵対し、前涼の朝貢を受け、東晋の爵位を拒絶した。拓跋猗㐌の妻・惟氏に殺害された。
拓跋賀傉
?-325年。代の第5代王。拓跋猗㐌の子。拓跋鬱律の死後即位するが、幼年であったため母の惟氏が摂政を行った。後趙とは修好路線をとった。親政を始めると諸族を統率できず、本拠を盛楽から東木根山へ移した。間もなく死去。在位4年。
拓跋紇那
生没年不詳。代の第6代、および第8代王。拓跋猗㐌の子。兄の死後跡を継いだ。後趙の攻撃で不利となり本拠を東木根山から大寧に移すなど勢威を落した。拓跋鬱律の子・拓跋翳槐と王位を巡り、宇文部や賀蘭部を巻き込んで争った。前燕へ亡命した後の事跡は不明。
拓跋翳槐
?-338年。代の第7代、および第9代王。拓跋鬱律の子。父が惟氏に殺害されると賀蘭部に逃れ匿われた。賀蘭藹頭に擁立されて代王となった。弟の拓跋什翼犍を襄国に送り後趙と修好した。怠慢の賀蘭藹頭を殺したため諸族に離反され鄴へ逃亡した。後趙の後援を受けて拓跋紇那を破り、本拠を大寧から盛楽へ移した。
拓跋什翼犍
318年-376年。代の第10代王。拓跋鬱律の子。拓跋翳槐の弟。若年を後趙の人質として襄国、鄴で過ごした。在位は38年の長期にわたり、安定した治世は代の最盛期を作った。後趙、前燕の滅亡時はいずれも南進しなかった。前秦の攻勢が強まると病により諸族の統率が弱まり、拓跋斤に唆された拓跋寔君に殺害された。
主な宗族
拓跋寔君
生没年不詳。拓跋什翼犍の庶長子。庶子という不安定な立場を拓跋斤に唆され、前秦に対して敗色が濃厚になりつつあった混乱を利用して拓跋什翼犍を殺害した。その後、前秦勝利の大勢は変わらず、捕縛され長安にて処刑された。代の領土は東西に分割され匈奴の鉄弗部と独孤部によって統治された。
拓跋孤
生没年不詳。拓跋鬱律の子。拓跋翳槐、拓跋什翼犍の弟。拓跋翳槐が死去したとき、後継の拓跋什翼犍が遠地の人質だったため代わって諸族に擁立されたが、長幼を重んじて自ら鄴へ赴き人質の交換を申し出た。領土の半分を統治する強権を持ったが、その地位は子の拓跋斤には継承されなかった。
拓跋猗㐌
267年-305年。鮮卑族の中部拓跋部の大人。拓跋沙漠汗の子。叔父の拓跋禄官が拓跋部を三分割すると中部を統治した。北方の諸族を攻略したほか、西晋と結んで勃興した前趙と戦った。大柄で馬が潰れるため牛車に乗っていた。
拓跋寔
?-371年。拓跋什翼犍の子。拓跋珪の父にあたる。母は慕容皝の娘で太子に立てられた。長孫斤が謀叛を起こして拓跋什翼犍に迫ると、身を挺して遮り深手を追った。長孫斤は捉えられ処刑されたが、予後が悪化し死去した。拓跋珪はその死後に生まれた。
主な人物
燕鳳
?-428年。字は子章。代郡の人。学問を修めてその高名を知った拓跋什翼犍に招かれた。長らく応じなかったが半ば強引に礼遇され、左長史に任じられたほか、太子・拓跋寔の教師役となった。代が前秦に併呑されると嫡流の拓跋珪を匿った。拓跋珪が独立すると北魏の中央職を歴任した。