西燕

publish: 2021-10-16, update: 2021-10-19,

概要

名称成立滅亡期間
西燕38439410

西燕は慕容泓が立てた王朝。 混乱する前秦の末年、前燕の再建を目指して成立したが、ながらく国情が定まらず、同じく前燕の後継を称した後燕に吸収された。 前燕を後継した諸王朝の中で、もっとも前燕の嫡流に近い。 ただし、短命王朝のためか五胡十六国には数えられていない。

主な出来事

独立

前秦によって前燕が滅ぼされたとき(370年)、前燕の皇族以下、4万戸とも表現される官民が長安へ強制移住された。 その後、前秦が淝水の戦いで敗北し(383年)国内が揺れると、かつて前秦に滅ぼされた王朝の皇族、遺臣たちが独立の機会を伺うようになる。 鮮卑慕容部による前燕の旧勢力は、その中でも最も大きな勢力であった。

皇族の慕容泓は長安を逃れて華陰にて挙兵、弟の慕容沖は河東に挙兵し、この勢力を基盤として西燕が成り立った(384年)。 慕容泓と慕容沖は、前燕の最終皇帝である慕容暐の弟たちであり、当初、慕容泓は兄・慕容暐を迎え入れて正式な前燕の復興を望んだが、慕容暐は長安で軟禁状態にあったため身動きが取れなかった。 慕容暐は苻堅に促されて弟たちへ降伏を進める手紙を送るが、一方では秘密裏に使者を出し「私が処刑されたら、汝が即位せよ」と慕容泓に伝えた。 このため慕容泓は皇帝を称さずに「燕興」に改元して独立した。

内紛

ところが、数か月と経たないうちに慕容泓は暗殺されてしまう。 慕容泓は法に厳正で人徳に薄く、慕容沖を擁立しようとした高蓋らによって殺害されたという。 後を継いだ慕容沖は慕容暐の皇太弟として擁立され、まもなく慕容暐が処刑されると長安を攻略して皇帝に即位した。 慕容沖は関中に勢力を確立したが、前燕を後継したのは西燕だけではなかった。 慕容沖らの叔父にあたる慕容垂は中山で独立し後燕を立てていた。 従う鮮卑諸族にとっては前燕の正統はそれほど重要ではなく、後燕と合流し故地に復帰する実利こそが重要であった。 しかし、西燕の皇族たる慕容沖からすれば、後燕に合流することは前燕の正統という自らのイデオロギーを失うことであり、認めることの難しい問題であった。 結果として、慕容沖は関中に割拠しようとするが、これに反発する部族たちの声が高まり韓延によって殺害されてしまう(386年)。

以後、西燕の進退は皇統の正当性と故地の回復の間に揺れて、まったく定まらなかった。 わずか半年余りの間に、段随、慕容凱、慕容瑤、慕容忠、慕容永が皇帝に就くという、驚くべき廃立が続いた。 段随は鮮卑の中でも慕容部ではなく段部の人であり、西燕の皇帝は諸族の道具に過ぎなかった。

滅亡

この混乱は、慕容永の代にようやく終息を見せる。 慕容忠が殺されると、慕容永は後燕に帰属した。 慕容永は慕容廆の弟である慕容運の孫とされ、西燕はここにきて前燕の嫡流に近いイデオロギーを完全に失っていた。 さらに勢力争いのなか、領域はずるずると東進してすでに長安は後秦によって攻略されていた。 後燕への帰順はようやく諸部族間の一致を見たとみられ、このとき東進の勢いを駆って晋陽一帯に残った前秦の残党である苻丕の軍を壊滅させている(386年)。

慕容永は長子県を根拠に「中興」と改元し、皇帝に即位して西燕を復活させた。 慕容永はもともと、拓跋屈咄や独孤部の劉顕とも通じた独立心のある人物であった。 もはや西燕の後継なのかも怪しいが、一般に慕容永は西燕の第6代皇帝に数えられる。 独立にあたって慕容垂や慕容儁の子孫を皆殺しにする徹底ぶりであり、一定の支持を得る基盤があったのであろう、その後、8年にわたって勢力を保持した。 しかし、前燕の正統な後継を確立したい後燕の攻撃を受け、慕容永は処刑、西燕は後燕に併合された。

特徴

西燕の本質

慕容泓が建てた西燕と、慕容永が復活させた西燕は、性質が異なる点には着目したい。 慕容泓、慕容沖は前燕の最終皇帝・慕容暐の弟であることは前述した。 この点で、西燕は当初は前燕の嫡流に最も近いものであった。

慕容泓、慕容沖は、ともに長安に在住し、挙兵するにあたって長安を脱出するも、慕容暐を救出するためか、長安にごく近い地において挙兵した。 この点で同時期に挙兵した慕容垂とは実状が異なる。 そのため軍の母体となったのは、自らの子飼いの軍勢というよりは、帰郷心の強い強制移住された鮮卑諸族であった。 前秦の法的な執行力から開放された長安在住の鮮卑諸族は一種の難民とも言える。 難民的な一面として、慕容沖が長安を攻略した際、長安では大規模な飢餓が発生し、略奪を許した記録がある。

これら難民化した鮮卑諸族が帰郷を目指して東進を目論むのは理解できる。 しかし、前燕の正統を掲げる慕容泓、慕容沖とは利害が一致しなかった。 割拠、東進、いずれにしても、慕容泓と慕容沖はマジョリティをなす難民集団の統制に失敗した。 慕容沖の死後、西燕は国家の体を見繕った暴走する難民集団とも言えなくもない。 この時点で、西燕の国家的イデオロギーは早くも潰えたといえるであろう。

この混沌とした集団を引き継いだ慕容永は後燕への臣従という、いたく現実的な方針で安定を図った。 しかし、この臣従は安定を図るための便宜に過ぎなかったことは、彼が数か月後には皇帝に即位していることから分かる。 このとき、慕容儁、慕容垂の親族を皆殺しにするほどであったから、慕容儁の血筋たる慕容泓、慕容沖の遺児が居れば殺されていたであろう。 この場合、慕容永が復活させた西燕は、慕容泓、慕容沖の「燕」とは似て非なる、また新しい「燕」と捉えるのが自然である。

歴代君主

慕容泓

?-384年。西燕の創建者。慕容儁の子。前燕の済北王。前燕の滅亡に際して関中へ移住した。慕容垂が河北で反乱すると追って挙兵した。強永、苻叡を撃破して東進し慕容沖と合流した。慕容沖を擁立しようとする高蓋らに殺害された。兄・慕容暐を憚って皇帝に即位しなかった。

慕容沖

端麗

359年-386年。西燕の初代皇帝。慕容儁の子。前燕の中山王。慕容恪死後の大司馬を後任した。慕容垂の挙兵に応じて河東にて挙兵するも、竇衝に敗れて慕容泓と合流した。慕容泓を殺害した高蓋らに皇太弟として擁立された。慕容暐が処刑されると皇帝に即位した。帰郷しようとする鮮卑諸族を統制できず左将軍・韓延に殺害された。

段随

?-386年。西燕の第2代王。段部の人。慕容沖が殺害された際、燕王として擁立された。即位後、昌平と改元するが、まもなく左僕射・慕容恒、尚書・慕容永に殺害された。

慕容凱

?-386年。西燕の第3代王。慕容皝の孫。慕容桓の子。慕容恒、慕容永により段随が殺害されると、燕王として擁立された。建明と改元し、諸部族を率いて長安を放棄し東進した。臨晋県に至って慕容恒の弟・慕容韜に殺害された。

慕容瑤

?-386年。西燕の第4代皇帝。慕容沖の子。東進した慕容凱が臨晋県で殺害されると、慕容恒に擁立された。建平と改元するも、まもなく慕容永に殺害された。

慕容忠

?-386年。西燕の第5代皇帝。慕容泓の子。慕容瑤の死後、慕容永に擁立された。建武と改元して聞喜まで東進を進め燕熙城を築いて拠点とした。まもなく刁雲に殺害された。

慕容永

?-394年。西燕の第6代皇帝。慕容運の孫とされるが父は不明。前燕の滅亡時に長安へ移住し、生活は困窮した。慕容垂が挙兵すると同時期に挙兵し、慕容泓、慕容沖と合流した。慕容忠が刁雲に殺害されると西燕をまとめて慕容垂に臣従したが、すぐに独立して8年に渡って割拠した。後に慕容垂の攻撃を受けて処刑された。

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