publish: 2020-06-06, update: 2021-11-11,

概要

名称成立滅亡期間
47950223

斉は、蕭道成が劉準から禅譲を受けて建国した王朝です。 統治期間は、479年から502年の23年間です。 なお、この頃、北朝の北魏では拓跋宏と、馮太后の治世であり、胡漢融合が推し進められた時代に当たります。 外患が少なく、竟陵八友などの文人サロンが成長しました。

特徴

三人の廃帝

斉は23年という短い統治機関にも関わらず、7人の皇帝がいます。 そのうち3人は皇帝の座を降ろされた廃帝です。 これだけでも、斉という国の異常性と混乱が想像されます。 前代の宋では宗族同士の権力闘争が絶えず、結果として宗室の弱体化と、軍閥の台頭による政権交代が起こりました。 宗族同士の権力闘争は、貴族権力に対抗する皇帝権力を拠り所にする恩倖の存在によって助長されたことは、既に宋の特徴として述べた通りです。

蕭道成や蕭賾は宋の土台をそのまま引き継ぎました。 そのため、斉は宋の弱点の上に成り立ったにもかかわらず、宋の弱点は斉においても解決されることがありませんでした。

台使の廃止

台使とは中央から地方へ派遣された使者で、地方の徴税を確実なものとするために、地方官を監督するものです。 この台使は、宋の劉駿の時代に開始され、元嘉の治を終わらせた北魏の外圧によって疲弊した財政を回復させる目的がありました。 しかし、台使は中央から派遣されるという強権を背景にしたため、地方官による地方行政はむしろ不安定になりました。 さらに台使自身の不当行為が蔓延したため、結果として民衆が混乱に苦しめられることになりました。

蕭子良は、この現状を分析して台使を廃止するとともに、地方官の任期を長くして、地方行政を安定させることに成功します。 しかし、台使は宋末の破綻した財政を立て直すために行われていたものであり、根本的な財政の立て直しなしには斉の財政は立ちゆきませんでした。 そこで、斉では戸籍の整理を行います。

当時、戸籍は士人と庶民で分かれていましたが、徴税、懲役を科せられていたのは庶民の戸籍のみでした。 そこで、裕福な庶民の中には、賄賂をもって地方官に取り入り、自らの戸籍を庶民から士人へと不正に切り替えてもらうことによって、税役を免れているものがいました。 当然、課税対象の人口が減れば税収は少なくなり、残された課税対象の庶民はますます重税に苦しむことになります。 斉ではこの不正を正すべく、戸籍を検査し整理を行いますが、不正者の既得権益は思いのほか大きく、486年には唐寓之の乱などが起こり、財政の回復は一筋縄ではいきませんでした。

主な出来事

相次ぐ嫡流の死

斉を建国した蕭道成は在位3年で没します。 482年、蕭道成の子・蕭賾が跡を継ぎ、斉は小康状態を保ちます。 蕭賾の治世は11年間におよび、優れた政治手腕を発揮したため、元号をとって永明の治と称されます。 ところが、493年に皇太子の蕭長懋が病没すると、同年、第2代皇帝・蕭賾も病没します。 蕭賾は皇太孫として蕭昭業を立てると、竟陵王・蕭子良と、西昌侯・蕭鸞に輔弼を任せます。

蕭鸞の暴虐

蕭鸞は初代皇帝・蕭道成の兄の子で、内心では帝位を窺う人物でした。 494年、輔弼を任された蕭子良が死ぬと、同年、蕭鸞は第3代皇帝・蕭昭業、第4代皇帝・蕭昭文を相次いで廃位、殺害したのち、自らが第5代皇帝として即位しました。 493年から494年の間に4人にも及ぶ帝室の正統が亡くなるという異常事態でした。 更に蕭鸞は、蕭道成、蕭賾の一族を皆殺しにするという、もはや精神的に正常であったのか疑わしいほどの恐怖政治をしきました。 498年、在位4年にして蕭鸞は病没します。

斉から梁への政変

蕭鸞の子・蕭宝巻が、跡を継いで第6代皇帝として即位します。 しかし、蕭宝巻は後に悪童天子と称されたほど、残虐で奇行が多く、政治を顧みずに奸臣を近づけたため、斉の朝廷は瞬く間に暗黒の中に沈んでいきます。 また、蕭宝巻は父・蕭鸞に似て、宗族、官僚、庶民に至るまで粛清を行ったため、地方から冷静に中央を観察した宗族や官吏らは、反乱を起こすに至ります。 498年以降、陳顕達、裴叔業、崔慧景、張欣泰などが五月雨に反旗を翻します。 蕭宝巻が粛清した一族の中に、蕭懿という人物がいました。 蕭懿は宗族の遠い縁戚に当たる人物で、裴叔業、崔慧景の反乱鎮圧をもって功を成し、それがために蕭懿の勢威を恐れた茹法珍らの讒言によって蕭宝巻に処刑されます。

500年、雍州刺史として襄陽に駐屯していた蕭懿の弟・蕭衍は、兄・蕭懿が誅殺されたことを知ると、蕭宝巻の弟である荊州刺史・蕭宝融を擁立して挙兵します。 501年、長江を下った蕭衍の軍勢が建康を制圧すると、蕭宝巻や奸臣達はことごとく処刑されました。 蕭衍は蕭宝融を擁立した手前、蕭宝融を皇帝に即位させますが、翌年には禅譲を受けて皇帝として即位します。 蕭衍は斉の宗室ではありましたが、斉の国号を引き継がず、以後、梁を建てます。

蕭斉帝室系図

  • 蕭承之
    • 蕭道生
      • 蕭鸞 5
        • 蕭宝巻 6
        • 蕭宝融 7
    • 蕭道成 1
      • 蕭賾 2
        • 蕭長懋
          • 蕭昭業 3
          • 蕭昭文 4
  • ※左側が年長者です。
  • ※数字は皇位の継承順を意味します。
  • ※皇位継承に関係のない筋は省略しています。
諡号姓名生年即位退位没年即位年齢没年齢在位期間
1高帝蕭道成42747948248252553
2武帝蕭賾440482493493425311
3(廃帝)鬱林王蕭昭業47349349449420211
4(廃帝)海陵王蕭昭文48049449449414140
5明帝蕭鸞45249449849842464
6(廃帝)東昏侯蕭宝巻48349850150115183
7和帝蕭宝融48850150250213141
平均28.331.63.3

歴代君主

蕭道成

427年-482年。字は紹伯。蕭斉の初代皇帝。高帝。蕭承之の子。寒門の出身。劉彧の代から勢力を強め、劉昱の代には各地の反乱を鎮圧して独裁を確立した。危惧した劉昱に誅殺を計画されるが先手を打って劉昱を殺害、沈攸之、袁粲ら反対勢力を滅ぼして、皇帝に即位した。在位3年。

蕭賾

440年-493年。字は宣遠。蕭斉の第2代皇帝。武帝。蕭道成の第1子。父蕭道成の死後皇帝に即位した。国力増強に傾注し、検地の実施、戸籍の整理などに行政手腕を発揮した。政治にも明るく貴族に対抗する皇帝権力の強化に務めた。在位中は国内が安定した。在位11年。

蕭昭業

473年-494年。字は元尚。蕭斉の第3代皇帝。鬱林王。蕭賾の子蕭長懋の第1子。皇太子であった父蕭長懋の死後、皇太孫に立てられた。蕭賾の死後皇帝に即位した。父と祖父が相次いで病没したため、蕭子良、蕭鸞の輔弼を受けた。蕭鸞と対立して殺害された。在位1年。

蕭昭文

480年-494年。字は季尚。蕭斉の第4代皇帝。海陵王。蕭賾の子蕭長懋の第2子。兄蕭昭業が殺害されると蕭鸞に擁立され皇帝に即位した。しかし実体は蕭鸞の傀儡であり、皇太后王宝明の勅令を引き出した蕭鸞によって、廃位、殺害された。在位2か月。

蕭鸞

452年-498年。字は景栖。蕭斉の第5代皇帝。明帝。蕭道成の兄蕭道生の第2子。父蕭道生の死後は蕭道成に養育された。蕭昭業、蕭昭文を相次いで廃位、殺害し皇帝に即位した。政治行政に有能を発揮したが、蕭鏘の粛清や蕭賾の子孫を断滅するなど猜疑を重ねた。在位4年。

蕭宝巻

483年-501年。字は智蔵。蕭斉の第6代皇帝。東昏侯。蕭鸞の第2子。蕭鸞の死後皇帝に即位した。奇行が多く、補佐する重臣や諫言する高官を殺害した。反乱した蕭衍に殺害された。暴君と評価される。女性の美しい歩みを例えた金蓮歩の故事が残る。在位3年。

蕭宝融

488年-502年。字は智昭。蕭斉の第7代皇帝。和帝。蕭鸞の第8子。人心を失った蕭宝巻打倒を目指す蕭衍に擁立されて皇帝に即位した。蕭衍が蕭宝巻を殺害して建康を平定すると、蕭衍に皇帝の位を譲った。蕭衍により巴陵王に封じられるがまもなく殺害された。在位1年。

主な宗族

蕭子良

460年-494年。字は雲英。竟陵王。蕭賾の第2子。斉代随一の文化人で各種の書物や仏典に通じた。自邸である鶏籠山の西邸には当時の文人たちが多く集まり、著名人は竟陵八友と称される。蕭賾の死後、王融らに擁立される動きがあったが、権力闘争を避け実現しなかった。間もなく死去。

蕭懿

?-500年。字は元達。蕭順之の子。蕭衍の兄。斉宗室の族類。各州の諸軍事、刺史を歴任した。時は蕭宝巻の乱世で、裴叔業、崔慧景の反乱を次々と鎮撫した。蕭宝巻へ忠誠的であったが、独立、謀反を勧める周囲の動きも多く、讒言を信じた蕭宝巻に死を命じられた。

主な人物

王融

詩人

467年-493年。字は元長。名門貴族である琅邪王氏の出身。王道琰の子。竟陵八友の一人。蕭賾の死後、蕭子良を擁立するが、蕭子良に即位の意思はなく、蕭鸞が蕭昭業を奉じて強く反対したため、蕭昭業の即位の後、逮捕され、ほどなく自殺を命じられた。

謝朓

詩人

464年-499年。字は玄暉。陳郡陽夏県の人。謝緯の子。蕭賾の治世に出仕し諸王や重臣の属官を経て蕭鸞に大いに信任された。岳父・王敬則が反乱するとその計画を告発した。江祏の反乱への加担を拒否したため露見を恐れた蕭遙光、江祏らに殺害された。山水詩を洗練させた名人。

崔慧景

438年-500年。字は君山。崔系之の子。宋の官職を歴任して、蕭道成の信任を得た。蕭鸞の死後、斉の重鎮ゆえに朝廷から警戒され、蕭宝玄を奉じて挙兵した。建康周辺を制圧し蕭宝巻を呉王に降格するが、蕭懿の攻撃を受けて敗死した。

裴叔業

438年-500年。裴順宗の子。裴潜の弟・裴徽の末裔。宋の時代に軍人として累進し、蕭道成の配下となった。蕭鸞と親しく信任されて北魏戦線を転戦したが、その死後、反乱を疑われて崔慧景、蕭懿らの討伐を受けた。北魏に救援を求めるも、間もなく病没した。

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