後梁

publish: 2021-07-30, update: 2021-11-03,

概要

名称成立滅亡期間
後梁55458733

後梁は蕭詧が立てた王朝。 侯景の乱によって梁の国内が分裂したとき、割拠した勢力の一つで、正統な梁の後継を主張した。 領土は江陵近縁のごく狭い範囲に限られ、一貫して西魏、北周、隋に従属した。 隋の楊堅の代に、天下統一の足がかかりとして王朝は解体された。

歴代君主

蕭詧

519年-562年。字は理孫。後梁の初代皇帝。宣帝。蕭統の第3子。侯景の乱で対立した蕭繹に兄蕭誉が殺されると、西魏に降って後楯を受けた。西魏が江陵の蕭繹を攻撃すると同調して蕭繹を殺害した。江陵一帯を拠点に自立し皇帝を称したが、実情は西魏の傀儡政権であった。在位7年。

蕭巋

542年-585年。字は仁遠。後梁の第2代皇帝。明帝。蕭詧の第3子。宗主国が西魏、北周、隋と変遷する中で一貫して友好な外交を維持した。北周が北斉を滅ぼした際は自ら長安へ行き祝賀した。安定した治政により熟成した南朝文化が後世に継承された。在位23年。

蕭琮

生没年不詳。字は温文。後梁の第3代皇帝。後主。蕭巋の第1子。父蕭巋の死後即位した。陳への侵攻を前に後梁の監視体制を強化する楊堅によって長安に呼び出され、本国は次第に換骨奪胎された。後梁が併合された後も重用され梁公に封じられるが、後に楊広の猜疑を受けて病没した。

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