北周
publish: 2021-10-10, update: 2021-10-11,
北周帝室系図
- 宇文泰
- 宇文毓 2
- 宇文覚 1
- 宇文邕 3
- 宇文贇 4
- 宇文闡 5
- ※左側が年長者です。
- ※数字は皇位の継承順を意味します。
- ※皇位継承に関係のない筋は省略しています。
歴代君主
宇文覚
542年-557年。北周の初代天王。宇文泰の第3子。宇文泰の死後、宇文護に擁立されて元恭から禅譲を受け天王として即位した。宇文護の傀儡であり、宇文護を排除するべく計画を立てるが露見し、廃位、殺害された。在位は1年に満たない。
宇文毓
534年-560年。北周の第2代天王。宇文泰の第1子。庶子であったため立太子されなかったが、宇文護が宇文覚を廃位すると即位した。政治に明るく聡明であり、その資質を恐れた宇文護に暗殺された。在位3年。
宇文邕
543年-578年。北周の第3代天王。武帝。宇文泰の第4子。兄の宇文覚、宇文毓がいずれも宇文護に殺害されると即位し、後に宇文護を誅殺した。陳と修好を結んで北斉を滅ぼし、北魏分裂以来の華北を統一した。周礼や鮮卑への復古を理想とし仏教と道教を弾圧した。病没。在位18年。
宇文贇
559年-580年。北周の第4代皇帝。宣帝。宇文邕の第1子。宇文邕の死後即位する。皇太子時代から資質を疑問視され宇文邕から厳しく教育されたが改善されなかった。在位1年足らずで子の宇文闡に譲位した。政治への興味がなく朝廷を楊堅に一任し、北周滅亡の要因を作った。
宇文闡
573年-581年。北周の第5代皇帝。静帝。宇文贇の第1子。宇文贇から譲位され即位する。即位時は僅か7歳であったため、外戚の楊堅の摂政を受けた。前代から既に国内に混乱が見られ、これを収束できないために楊堅から禅譲を迫られ退位した。介国公に封じられるが殺害された。
主な宗族
宇文護
513年-572年。字は薩保。代郡武川鎮の人。宇文顥の子。宇文泰の兄の子であり、宇文泰と共に西魏の重臣となった。宇文泰の死後、北周が成ると専横を強めた。趙貴、独孤信らの重臣のほか宇文覚、宇文毓を殺害する暴虐の一方で、優れた治政により北斉との国力を逆転させた。愚鈍を演じた宇文邕によって殺害された。晋国公。
宇文憲
544年-578年。字は毗賀突。宇文泰の子。北周建国時に幼くして既に重臣の身であり、益州総管としての治政は善政と評価される。斛律光を相手に善戦し、人心掌握にも優れて人望が厚かった。専横する宇文護の信任を得て朝廷内の調整役を担った。宇文邕の死後、その権威を恐れた宇文贇に殺害された。
主な人物
韋寛
509年-580年。字は孝寛。諱は叔裕とも。京兆郡杜陵県の人。韋旭の子。始め蕭宝寅に属したが、蕭宝寅が反乱すると離反して長孫稚、楊侃、源子恭らの属官を務めた。独孤信と並んで連璧と称された。間諜の扱いに長けて戦わずして斛律光の失脚を決定づけるなど、人間の機微に聡かった。