publish: 2020-06-28, update: 2021-11-03,

概要

陳は、陳霸先が蕭方智から禅譲を受けて建てた王朝です。 その統治期間は、557年から589年の32年間です。 陳は隋によって滅ぼされる南朝最後の王朝となります。 この期間、華北では、北周が北斉を滅ぼし、隋が北周から禅譲を受けて建国しています。

特徴

弱小勢力

陳の勢力は、長江以南に限られ、四川方面はおろか、襄陽や江陵なども消失していました。 南朝の諸王朝の中では、最も小さい王朝で、三国時代の呉と比べても、さらに小さい勢力です。

その原因は前代の梁で起きた侯景の乱にあります。 陳霸先は侯景の乱を鎮圧した功臣の一人ですが、この混乱によって失った四川地方や、襄陽を取り戻すことはできませんでした。 さらに、江陵には北周の後援をうけた後梁が独立しており、加えて一時期、湖南には北斉の後援を受けた南梁が独立している有様でした。

また、陳霸先は王僧弁を殺害したために、陳は長らく王僧弁の残党に悩まされることになります。 陳霸先と王僧弁の対立は、北斉に近づきたい王僧弁と、北周に近づきたい陳霸先の思惑の違いを源泉としており、侯景の乱以後の梁、及び陳が、北斉と北周の外交的圧力に翻弄されたことを意味します。 陳霸先の親族は、江陵が陥落したおり、北周(当時は西魏)へ拉致された経緯があります。

その後、呉明徹の北伐により、陳は一時的に淮南を取り戻しますが、それも弱体化した北斉につけこんだ結果であり、淮南の地は北斉を併呑した北周に再度奪われています。 北周に代わった隋の時代では、国力差はもはや覆しようがなく、楊堅の連年にわたる慎重な攻撃により、陳はじりじりと滅亡への道を辿ることになります。

貴族の後退と嶺南地方の発展

南朝を縦断的に支配していた貴族は、南朝特有とも言える安定した政権の上に成り立っていた側面があります。 その安定は貴族同士の牽制の産物でもあり、南朝と貴族は東晋以来、相互に補完する関係でした。 侯景の乱以後の外圧によって安定を失った梁末以降では、貴族の存在は小さくなりました。 世襲する貴族の価値観とは全く異なる価値観を持つ実力者たちが、国家の上層部で朝廷を運営せざるを得なくなり、貴族の政治的舞台が消失したからです。 梁の安定した政治よる弛緩が貴族の資質そのものを低下させていたことも、貴族の勢力後退の一因です。

前述の通り、陳の支配域は長江下流から嶺南地方に限られていました。 陳霸先が、おもに嶺南方面を拠点に力を蓄えた軍閥でした。 大きく国土を失った陳が、一定の国力を維持できた背景には、当時の嶺南地方が大きく発展していたことが挙げられます。

文化的頂点

初唐の三大家である欧陽詢、虞世南、褚遂良は、みな南朝を出自とする家の生まれです。 これは、東晋以降、宋、斉、梁と王朝を引き継いできた南朝が、興亡の多かった北朝に比べて、文化的にいかに先進していたかを表す証拠です。 特に陳では、南朝文化は頂点に達したといえます。

陳の後期は、すでに隋との国力差は開く一方で、陳の政治に関心を持つ者自体が少なくなっていました。 尚書令として宰相の地位にあった江総ですら、職務を全うせずに詩作ばかりしており、この傾向は皇帝である陳叔宝ですら同じでした。

隋の攻撃による陳の滅亡により、南朝文化の多くは破壊されましたが、文化的人材が根絶やしにされることは無く、文化人たちを通して南朝の成熟した文化は、隋、唐へと継承されました。

主な出来事

反乱の鎮圧と小康

557年、陳霸先が蕭方智から禅譲を受けたとき、陳の朝廷は三呉を中心とした地方政権ほどの実力しかありませんでした、 建安郡の陳宝応を中心に、臨川郡には周迪、豫章郡には熊曇朗、東陽郡には留異が割拠し、さらに蕭荘を擁立した王琳が湘州から郢州(長沙から江夏)にかけて南梁を建てていたからです。

陳霸先は対応に苦慮し、同姓であった陳宝応を、同族と見なして皇族の待遇を与え、懐柔するほどでした。 しかし、陳霸先はこれらの敵対勢力を完全に鎮めることなく、死去します。 560年、陳霸先の跡を継いだ陳蒨は、南梁を併呑することに成功すると、564年までには陳宝応を討ちとり、ようやく国内の情勢を安定させます。

隋の攻撃

その後、陳では、陳頊を中心とした政変が起こりますが、北周と北斉が末期に至るにあたって、一時期の小康状態を得ます。 しかし、577年、北周が北斉を滅ぼし、581年、隋が北周から禅譲を受けて華北を統一すると、隋の矛先は華南へとむけられます。 588年、隋が南征の軍を起こすと、翌年、589年には建康は陥落し、陳は滅亡します。

陳帝室系図

  • 陳文賛
    • 陳道譚
      • 陳蒨 2
        • 陳伯宗 3
      • 陳頊 4
        • 陳叔宝 5
    • 陳霸先 1
  • ※左側が年長者です。
  • ※数字は皇位の継承順を意味します。
  • ※皇位継承に関係のない筋は省略しています。
諡号姓名生年即位退位没年即位年齢没年齢在位期間
1武帝陳霸先50355755955954562
2文帝陳蒨52255956656637447
3(廃帝)臨海王陳伯宗55456656857012162
4宣帝陳頊530568582582385214
5(後主)陳叔宝55358258960429517

第5代皇帝・陳叔宝は陳滅亡後も余生を永らえました。 陳叔宝自身が警戒されなかったという側面もありますが、陳叔宝以外の陳の皇族も揃って隋で重用されているので、楊堅の一貫した政策と見ることができます。

歴代君主

陳霸先

503年-559年。字は興国。陳の初代皇帝。武帝。陳文賛の子。潁川陳氏の陳寔の末裔。蕭繹に従って王僧弁と共に侯景を討った。蕭淵明の即位を巡って王僧弁と対立し、王僧弁を討って蕭方智を復位させた。まもなく蕭方智に禅譲を迫って皇帝に即位し陳を建てた。在位2年。

陳蒨

522年-566年。字は子華。陳の第2代皇帝。文帝。陳霸先の兄陳道談の第1子。王僧弁の残党を糾合した王琳が蕭荘を擁立して梁の正統を立てると、周迪、留異、陳宝応ら各地の反乱と共にこれを滅ぼした。北周と修好を結び北斉の介入を退けた。内政を安定させ陳の基盤を固めた。在位7年。

陳伯宗

554年-570年。字は奉業。陳の第3代皇帝。廃帝、臨海王。陳蒨の第1子。父陳蒨の死後即位した。若年での即位のため、遺言により叔父陳頊の後見を受けた。実情は陳頊の傀儡であり、陳頊によって廃位され臨海王に落された。まもなく殺害された。在位2年。

陳頊

530年-582年。字は紹世。陳の第4代皇帝。宣帝。陳霸先の兄陳道談の第2子。陳蒨の死去にあたって劉師知や到仲挙らとともに陳伯宗の補佐を託されるが、劉師知や到仲挙を排除して陳伯宗を廃位し、皇帝に即位した。内政に力を注いだが、北斉を滅ぼした北周に圧迫された。在位13年。

陳叔宝

553年-604年。字は元秀。陳の第5代皇帝。後主。陳頊の第1子。父陳頊の死後即位した。施文慶、沈客卿、江総ら奸臣を重用し、自らは飲酒や詩作に耽って政治を顧みなかったため、国政は乱れて国力は衰退した。隋の攻撃に降伏し、警戒されることなく余生を全うした。在位7年。

主な人物

劉師知

?-567年。劉景彦の子。梁の諸王府の参軍を歴任した。学問を好んで博学であり、陳建国時の儀礼、制度を定めた。陳蒨が重篤になると到仲挙らと共に病床に近侍して決裁を代行した。陳伯宗が即位すると、陳頊の排斥を行ったが、かえって陳頊に捕縛され処刑された。

到仲挙

517年-567年。字は徳言。到洽の子。陳蒨の下で昇進を重ねた。統治は公平であったが、学問に暗く必ずしも実務に長けてはいなかった。陳蒨の死後、陳伯宗が即位すると、その輔弼を任された陳頊を排除しようとして失敗し、陳頊に逮捕されたのち処刑された。

章昭達

518年-571年。字は伯通。侯景の乱では建康を守るが落城と共に脱出した。陳蒨と親交を結び、王琳、周迪、陳宝応、留異らの反乱を平定して、陳初の安定に寄与した。その後も、華皎や欧陽紇の反乱を鎮めつつ、後梁や北周と戦った。病没。

呉明徹

512年-578年。字は通昭。呉樹の子。梁に仕えて各武官職、刺史を歴任した。侯景の乱では陳霸先の信用を得て、陳の建国後さらに累進した。北伐を行い淮南を回復するが、三度に渡る呂梁の戦いの結果、北周に敗れて捕縛され、長安へ連行された。長安にて病没。

沈恪

509年-582年。字は子恭。梁末に蕭暎に仕える。侯景の乱では建康に入城して防戦するが、陥落すると脱出して陳霸先と呼応して挙兵した。陳の将軍職、刺史職を歴任して、侍中まで上った。病没。子の沈法興は隋末の群雄の一人。

江総

519年-594年。字は総持。江紑の子。西晋から続く名門貴族の出身。尚書令の重職にありながら詩文を作るのみで、狎客と批判を受けた。陳叔宝の政治的暗愚を助長し、奸臣とも評される。優れた詩文は高く評価されるが、亡国の臣という経歴を伴って軽薄だとも評価される。

欧陽詢

557年-641年。字は信本。長沙郡臨湘県の人。欧陽紇の子。父・欧陽紇が嶺南で反乱を起こして討伐されると、江総に匿われて養育された。陳の滅亡後は、隋、唐に仕え、王羲之以来の書法を研究した。初唐の三大家、楷書の四大家に数えられる。

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