高殷
publish: 2021-11-05, update: 2021-11-05
545年-561年。字は正道。北斉の第2代皇帝。廃帝。高洋の第1子。北斉建国と共に立太子されるが、父の高洋に疎まれた。父高洋の死後即位する。鮮卑系武官と漢人系文官の対立を経て高演へ権力が集中した。太皇太后の婁昭君の勅令により廃され、後に高演に殺害された。在位1年。
関連
畢義雲
生没年不詳。代々刺史職を務め、施しをもって困窮者を救ったが、元来の性は豪縦であり、羊烈や宋遊道から誹られた。倫理に欠如しており、乱れた性生活、散財、過度な懲罰は朝野の知るところとなり、あるとき突然、怪死した。蘭子暢の捜査によれば犯人はその遺留物から庶子の畢善昭とされる。
高儼
558年-571年。字は仁威。琅邪王。高湛の子。高緯の弟。若くして聡明、剛毅であり、顕職を兼任して強力な権限を持った。専横する和士開を弾劾し処刑せしめたが、軍を動員して高緯に従わなかったため鄴に幽閉された。属官らは捕縛、処刑され、その影響力を恐れた高緯に殺害された。
和士開
524年-571年。字は彦通。清都郡臨漳県の人。和安の子。西域の商胡(ソグド人)の子孫という。北斉が成ると召されて高湛に寵愛された。高洋に軽薄と評価され長城への徙刑に処され後に許された。高湛の即位後は累進して、高湛の死後は権力を専横した。高儼によって捕縛、処刑された。