劉炟
publish: 2021-12-03, update: 2021-12-03
57年-88年。章帝。後漢の第3代皇帝。劉荘の子。儒学を好んで寛容な政治を布き経済発展に寄与したほか、外征でも積極策を前代から継承した。儒学への傾倒は経典解釈の議論へ自ら参加するほどであった。馬皇太后の死後、皇后・竇氏が側室を誣告して自死させるなど外戚の強権が目立ち始めた。
関連
劉炳
143年-145年。沖帝。後漢の第9代皇帝。劉保の子。立太子された年に劉保が没したため、僅か2歳で即位した。まもなく、死去したため梁冀の専横が進んだ。梁冀による毒殺もうわさされた。在世中は、九江において徐鳳、馬勉が反乱を起こし揚州一帯を擾乱させた。
梁冀
?-159年。字は伯卓。安定郡烏氏県の人。梁商の子。酒と遊びを好み学問に疎かったが、二人の妹を皇后としたため、侍中、執金吾、河南尹などを歴任し父の死後は大将軍を継いだ。性は傲慢、強欲であり朝政を壟断し質帝・劉纘から跋扈将軍と揶揄された。皇帝の弑逆など数々の悪事が残る。桓帝と謀った単超らに逮捕され自害した。
劉保
115年-144年。順帝。後漢の第8代皇帝。劉祜の子。閻氏らによって廃嫡されていたが、孫程が閻氏らを排除すると擁立されて即位した。宦官の封爵、家督相続を認め、宦官の政治参加を促進した。賢臣を集め、外戚・梁氏の献身を得たが、梁冀への権力集中が高まると、その掣肘が成されるまま没した。