劉喬
publish: 2021-12-05, update: 2021-12-06
249年-311年。字は仲彦。南陽郡安衆県の人。劉阜の子。前漢の長沙王・劉発の末裔。王戎の属官となり呉征伐の功で滎陽県令となった。楊駿の誅殺や賈氏の排斥に協力し昇進を重ねた。豫州刺史として張昌の乱を鎮め、承制する司馬越に反発した。司馬越が実権を握ると許されたが、司馬越の死後、石勒の攻撃により捕縛、処刑された。
正論を好む人物だったようである。 司馬冏が嵆紹を下にも置かない厚遇をしたとき、劉喬はこれを諫めて止めさせた。 嵆紹は唐突な扱いの変化に戸惑い劉喬に相談すると、劉喬は「正人からの忠言があり、特別待遇に値しないと悟られたのです」と答えた。 嵆紹は訝しげに「その正人とは誰か」と問うと、劉喬は「近くにいるでしょう」と言ったので、嵆紹は閉口したという。
また、司馬冏が朝廷を統括してその腹心の董艾が政治を専横したとき、劉喬はこれを真っ向から弾劾すること6回におよび、煙たがられた董艾によって左遷された経緯がある。 司馬越が司馬顒に反発したとき、司馬越は承制して勝手な人事を布告したが、劉喬はことごとく服さなかったために、かえって司馬顒の急先鋒として司馬越と戦った。 劉喬はもともと司馬顒の長安遷都に反発し、皇帝奪還を目指して兵を起こしていたため、この敵対は全く本意ではなかったに違いない。 自らが信条とする勤皇と形式が一致せず、自縄自縛となった劉喬の苦悩である。
後に司馬越からは許されており、そもそも、楊氏や賈氏の排斥にも加担しながら罪を得ず、正論を論じながら身を滅ぼさなかった背景には、時の正義に忠実ではあるが、権力には染まりきらない割り切った態度が見て取れる。 なかなか凡人にはできないことをやる人ではあるが、人間関係の距離感がおかしい変人とも言える。 一方で、司馬越亡き後は石勒に対して為す術なく、若干大略に欠けた傾向も感じられ、良くも悪くも官僚的であったと言えよう。
関連
司馬亮
?-291年。字は子翼。汝南王。司馬懿の第3子。八王の一人。宗族の長老的存在。賈南風と結託した司馬瑋が専横を揮った楊駿を粛清すると、衛瓘と共に執政にあたったが、賈南風や司馬瑋と対立し殺害された。第2子・司馬矩の子孫は、東晋の汝南王として存続した。