劉協
publish: 2021-12-04, update: 2021-12-04
181年-234年。献帝。後漢の第14代皇帝。劉宏の子。劉弁の異母弟。董卓に擁立されて即位したが、以降、時の権力者の正統性の道具としてのみ機能し後漢王朝は実質消失した。曹丕が魏王を襲爵すると、世論の圧力により帝位を曹丕へ禅譲した。山陽公。
そもそも、禅譲とは皇帝がその位を世襲させずに有徳者へ譲ることを指すが、劉協から曹丕への禅譲は半ば強要されたものであり、この形式的な禅譲は後世に対する大きな前例となった。 とはいえ、劉協は禅譲後も山陽公として長らく寿命を全うし、「朕」の一人称の継続使用を容認され、子たちが列侯となるなど、きわめて厚遇された。 山陽郡は実子の劉懿が山陽王として封じられていた郡国で、洛陽にも近い豊かな土地であり、好意的な配慮といえる。 政治的なイデオロギーを継承しようとする蜀漢という敵国がある中で、随分と余裕のある対応であった。 後世、禅譲を行った皇帝が後に殺される例が多いことを鑑みれば、劉協から曹丕への禅譲は、その成功例とも言えるかもしれない。
ところで、生年、没年ともに諸葛亮と一致するあたりに、不思議な運命めいたものを感じざるをえない。
関連
銚期
?-34年。字は次況。潁川郡郟県の人。銚猛の子。身長八尺二寸。馮異によって推薦され賊曹掾となり薊に赴任した。鄧禹の属官として信任を得て、王郎討伐のほか、銅馬、青犢、赤眉など反乱軍と激戦した。法に厳正で信義があり諫言を行った。衛尉、安成侯。
袁紹
?-202年。字は本初。汝南郡汝陽県の人。何進の属官となって以後、昇進して西園八校尉など務めた。何進の死後、宦官を排斥し、董卓と対立すると冀州を拠点に群雄として割拠した。河北四州を統べて一大勢力を築くが、官渡の戦いで曹操に敗北して以降は衰退した。勢力回復に奔走するなか病没した。
杜茂
? - 43年。字は諸公。南陽郡冠軍県の人。劉秀が河北を攻略するなか合流した。北方に割拠した盧芳の対応に当たり、馬成が後任するまで長らく匈奴の侵入に備えた。横領、殺人教唆で免官、減俸を受けた。驃騎大将軍、参蘧侯。