劉懿
publish: 2021-12-03, update: 2021-12-03
?-125年。少帝。後漢の第7代皇帝。済北王・劉寿の子。劉炟の孫。劉祜の死後、皇太后・閻氏によって擁立されたが、間もなく病没した。後に、孫程によって閻一族が粛清されると、王に降格されて改葬された。正史である范曄の『後漢書』では皇帝として扱われない。
関連
劉楨
?-217年。字は公幹。東平郡寧陽県の人。劉梁の孫。曹操の辟召に応じて丞相掾属、平原侯庶子、五官将文学を務めた。曹丕、曹植と親交したが、曹丕の夫人・甄氏を平視した不敬で朝歌県県令に左遷された。誠実で才能があるが自制や遠慮に乏しいと王昶に評された。病没。著作は『詩品』に残る。
陳俊
?-47年。字は子昭。南陽郡西鄂県の人。劉嘉の長史となったが、劉嘉の薦めで劉秀の安集掾となった。各地の農民反乱の鎮圧に働いたほか、董憲や張歩を討伐した。泰山太守、琅邪太守として山東の鎮撫に大きく貢献した。琅邪太守、祝阿侯。
劉肇
79年-106年。和帝。後漢の第4代皇帝。劉炟の子。10歳で即位し義母である皇太后・竇氏の輔弼を受けた。長じて竇氏の強い専横を解こうとして対立し、宦官の鄭衆を頼って竇一族を排除した。後の外戚、宦官の対立構造の初端となった。班超の西域経営により後漢最大の版図を成した。