劉義隆
publish: 2021-08-08, update: 2021-10-25
407年-453年。劉宋の第3代皇帝。文帝。劉裕の第3子。兄劉義符が廃されると即位した。兄を殺害した罪で徐羨之らを処刑し朝廷を掌握した。元嘉の治と呼ばれる全盛を築くが、晩年は北魏の侵攻を受けて国内は乱れた。劉劭の廃嫡を考えるが、決起した劉劭に殺害された。在位29年。
関連
謝霊運
385年-433年。字は宣明。陳郡陽夏県の人。謝瑍の子。謝玄の孫。東晋の康楽公を継いだが、宋では侯に降格された。永嘉郡太守、秘書監、侍中を務めながらも度々辞職し詩作に没頭した。隠遁しつつも生活は豪勢で、騒乱の罪を得て広州に流刑された。道中、脱走の容疑で処刑された。
檀道済
?-436年。劉裕に仕えて、桓玄の乱や北伐を転戦して宋朝建国の功臣となった。劉義符の廃位に加担するもその後の罪を逃れた。のちに北伐を行い、対北魏戦線の要として軍の最高職を務めたが、勢威を恐れた劉義隆に殺害された。『三十六計』の著者。
劉彧
439年-472年。字は休炳。劉宋の第6代皇帝。明帝。劉義隆の第11子。甥劉子業が暴虐であったため、殺害して皇帝に即位した。しかし世論を得られず反乱が頻発し、北魏の侵攻、財政難、賄賂の横行などに苦慮した。降伏には寛容である一方で多くの皇族を処刑した。在位6年。