石祗
publish: 2021-04-26, update: 2021-10-25
?-351年。後趙の第7代皇帝。新興王。石虎の子。冉閔が石鑑を廃して冉魏を建てると封地の襄国で皇帝に即位した。冉閔討伐の兵を興すも一進一退し、冉閔に敗れて保身を図った配下の劉顕によって殺害された。史書によっては君主として数えられない。
関連
麻秋
?-350年。胡人。後趙の武人で特に石虎に重用された。苻洪の反乱や、段遼ら鮮卑の侵攻、前燕、前涼の圧力に対して歴戦した。石虎の死後は冉閔に従い、王朗を攻撃して逃走せしめた。自立した苻洪に敗れて降伏するも、その勢力を奪わんとして苻洪を毒殺した。苻健によって処刑された。
程遐
?-333年。石勒の挙兵に従い、早くから長楽郡太守を務めた。妹が石勒に嫁ぎ石弘を生んだため外戚として昇進した。張賓の死後その重職を継いだが、人格や能力は張賓に及ばなかった。石虎の横暴を度々上奏したが聞き入れられず、石勒の死後、石虎に誅殺された。
申鍾
生没年不詳。魏郡魏県の人。後趙に仕えて侍中、司徒を歴任した。石虎の横暴を諫めた争臣としての逸話が残る。冉閔が魏を建国すると、これに従い太尉となった。前燕によって冉閔が滅亡すると、捕縛されて薊に送られるが、許されて慕容儁に登用された。その後の事跡は不明。