張耀霊
publish: 2021-04-26, update: 2021-10-25
343年-355年。字は元舒。前涼の第6代君主。哀公。張重華の次男。張重華が病を患うと10歳で世子に立てられる。張重華は謝艾に後見を任せようとしたが、遺詔は捏造され張祚に摂政が委ねられた。幼年を理由に張祚に廃され復位の兆しが出ると殺害された。
関連
張寔
271年-320年。字は安遜。前涼の第2代君主。昭公。張軌の長男。西晋の驃騎将軍であったが、中央を辞して父が治める涼州へ帰還した。張軌の死後その地位を継ぐ。愍帝が降伏するにあたって司馬睿とともに後事を託された。邪教を信奉する配下に背かれ殺害された。
張駿
307年-346年。字は公庭。前涼の第4代君主。文公。張寔の子。張茂の跡を継ぐ。このとき前涼は東晋と前趙の両国に臣従していたが、前趙が後趙に対して劣勢になると前趙から受けた官爵を廃した。涼州・河州・沙州を定め前涼の最盛期を現出した。病により死去。在位22年。
張瓘
?-359年。宗族だが系譜は不明。張駿の代に、寧戎校尉、河州刺史を歴任して強勢を作った。張祚討伐のための挙兵を成功させ、張玄靚の輔弼の筆頭となった。宋混を恐れて誅殺しようとしたが、事前に察知した宋混の攻撃を受け、自害した。猜疑心が強く、苛虐であった。