鮑照 ( ほうしょう )

publish: 2021-10-28, update: 2021-10-28

王朝

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詩人

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retsuden

414年-466年。字は明遠。東海郡襄賁県の人。貧しい家柄に生まれ、臨川王・劉義慶に仕えたほか、臨海王・劉子頊の下で前軍参軍を努めた。劉子頊が反乱すると、混乱のなか殺害された。詩人として高名で、その作風は通俗的と批判される一方で、躍動的にして新奇的であり、後世に大きな影響を残した。

妹の鮑令暉も詩人として知られる。

得意としたのは楽府 がふ と呼ばれる形式で、それ自体が『宋書』の「楽志」に記載される文学作品である。この文体を楽府体という。 楽府はもともと前漢の武帝の時期に音楽を管掌する役所として設立されたが、後に楽府に集められた歌謡そのものを指すようになった。 時代が下るにつれて、民間歌謡もその範囲となり、西晋以降に形式として確立して南北朝時代に全盛となった。 これらは古楽府と呼ばれ、唐代以降は白居易によって新楽府に取って代わられていく。

鮑照自身が寒門の出身であったため、属官のみならず中央職を歴任したものの、海虞県令、永嘉県令など比較的下級職に留まった。 このことは鮑照にとって挫折として捉えられ、腐敗する貴族社会への抗議、民衆の苦難などが、その詩風に現れる。

関連

范曄

398年-445年。字は蔚宗。南陽郡順陽県の人。会稽郡山陰県の生まれ。范寧の孫。范泰の子。名門、順陽范氏の人。奇特ともいうべき奔放さがあり、度々不祥事を起こしては避難を買った。左遷された任地で『後漢書』を編纂した。後に、劉義康の反乱に加担したとして処刑され、一門は断絶した。

謝霊運

385年-433年。字は宣明。陳郡陽夏県の人。謝瑍の子。謝玄の孫。東晋の康楽公を継いだが、宋では侯に降格された。永嘉郡太守、秘書監、侍中を務めながらも度々辞職し詩作に没頭した。隠遁しつつも生活は豪勢で、騒乱の罪を得て広州に流刑された。道中、脱走の容疑で処刑された。

殷景仁

390年-441年。陳郡長平県の人。殷道裕の子。劉毅の属官を経て劉裕に従い、そのまま宋の成立と共に入朝した。当初は劉湛との関係も良好で、荊州に出向した劉湛の呼び戻しを推薦したが、後に一方的に劉湛からは憎まれた。病を称して家に留まること五年におよび、その間、劉義隆との書簡の往来で職務を全うした。
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