畢義雲 ( ひつぎうん )

publish: 2022-03-14, update: 2022-03-27

王朝

章節

retsuden

生没年不詳。代々刺史職を務め、施しをもって困窮者を救ったが、元来の性は豪縦であり、羊烈や宋遊道から誹られた。倫理に欠如しており、乱れた性生活、散財、過度な懲罰は朝野の知るところとなり、あるとき突然、怪死した。蘭子暢の捜査によれば犯人はその遺留物から庶子の畢善昭とされる。

畢義雲は北斉書の酷吏伝にその名が載るように、控えめに捉えても敵の多い人物であった。 そのような分かりやすい悪の高官が、突然、何者かによって殺害されたのであるから、現代の醜聞よろしく、当時も巷の噂を掻っ攫ったことであろう。

殺害の凶器は畢善昭の剣だったとされ、蘭子暢の捜査では畢義雲の愛妾であった盧氏と密通していたのが畢善昭だったという。 畢善昭も父に劣らず人格が破綻した人物で、侍女を強姦しては父から鞭を打たれたり、拷問に近い折檻を受けていた。 親も親なら子も子である。 いわば親子関係のもつれが殺害動機とされるが、何やら陰謀めいた動きも見れる怪事件である。

関連

崔季舒

?-573年。字は叔正。博陵郡安平県の人。崔瑜之の子。若くして父を失うも学問に頭角を現し、高琛の属官を経て高歓に重用された。元善見の側近となり「我が乳母」と評されるほど信任される一方で、高澄からも厚く信任され大きな発言力を持った。権力闘争著しい朝廷にあって韓鳳の讒言により殺害された。

斛律羨

?-572年。字は豊楽。斛律金の子。斛律光の弟。幽州刺史として北辺を長らく治め、強大化する突厥への対処と、優れた治水により兄と共に栄転した。富貴を極めることを危ぶみ、辞職を希望したが許されなかった。斛律光が処刑されると任地にて逮捕され処刑された。

高演

535年-561年。字は延安。北斉の第3代皇帝。孝昭帝。高歓の第6子。高殷が即位すると、輔弼した楊愔、燕子献、宋欽道を偽勅で処刑し権力を掌握した。太皇太后婁昭君と結託して高殷を廃し自ら皇帝に即位した。落馬で重体となり死期を悟ると弟高湛に帝位を譲った。在位1年。
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