竇憲
publish: 2021-12-31, update: 2021-12-31
?-92年。字は伯度。扶風平陵県の人。竇勛の子。竇融の曾孫。妹を劉炟の皇后として外戚となった。妹の寵臣・劉暢を暗殺して逮捕された。刑務として北匈奴討伐を行い大いに成果を得たため大将軍として朝廷に君臨した。帝位簒奪を目論むが、察知した劉肇に賜死を受けた。
後漢初の外戚の禍を招いた人物でもある。
竇憲が暗殺した都郷侯・劉暢は、光武帝・劉秀の兄・劉演の曾孫にあたり、傍系ではあるが皇族の一員である。 劉暢は邪僻と表現される人物でありながら、竇氏の寵臣となり、兄たる竇憲はその権限を劉暢に奪われることを恐れた、というのが暗殺の理由とされる。 しかし、その後、贖罪として北匈奴の討伐を行い、前例のない成果を挙げたため、かえって外戚としての地位を向上させた。
刑務として、兵権を得るのは通常では考えにくいことで、この辺りは複雑な事情がありそうである。 というのも、匈奴は前漢の頃とは異なり、勢力を縮小させて、北匈奴と、南匈奴に分裂していた。 南匈奴はすでに後漢に従属しており、竇憲の北伐の前、北匈奴では飢饉が起こり、南匈奴は北を併呑せんとして出兵を上奏していた。 北方の異民族は、むしろ匈奴から鮮卑への過渡期にあり、北伐の難度は前漢の武帝期などとは比較できないであろう。 一言でいえば、竇憲は自分の手柄として匈奴を上手く利用したのである。
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2年-58年。字は仲華。南陽郡新野県の人。雲台二十八将の筆頭。長安留学中に劉秀の知遇を得た。劉秀が河北へ向かうとこれを追って鄴で合流した。大略を見極め人材輩出に異能を示した。劉秀にとってその大器は貴重なもので、関中遠征など多くの大任を授けられた。太傅、高密侯。
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?-36年。字は子翼。上谷郡昌平県の人。上谷郡の功曹を務めた。太守・耿況を説いて劉秀に従った。河内太守を務めて鄧禹からは蕭何に比された。軍事、外交に優れる一方で、地方統治にも優れ、執金吾に栄転すると領民からは慰留の陳情が上がった。執金吾、雍奴侯。