范長生
publish: 2021-05-07, update: 2021-10-25
?-318年。字は元寿。涪陵郡丹興県の人。天師道の教祖。蜀の八仙の一人。李特らが益州に入って羅尚と対立したとき、青城山に拠点を構えていたため、羅尚の下で汶山郡太守に任じられた。食糧を供給して李流を支援し、李雄に従って丞相まで昇った。病没。
補記
拠点とした青城山は、道教の発祥の地の一つとして知られ、現在では景勝地として文化遺産(世界遺産)に登録されている。
年齢は、百歳近く、あるいは百歳を越えたとされ、かつては劉備に仕えたとも、劉備の征伐を退けたともあり、宗教組織の教祖、仙人に相応しい謎ばかりの人物である。 丞相は宰相職だが、李特たちとの関係性も薄く、教祖としての名望があったとはいえ、出自も良く分からない老人が就くあたり不気味である。
子に范賁(?-349年)があり、父をついで丞相となった。 桓温の遠征による成漢の滅亡まで健在で、滅亡後に散発した反乱の一つとして鄧定、隗文に推戴された。 現地の支持は強かったが、東晋の益州刺史・周撫、龍驤将軍・朱寿によって鎮圧され処刑された。
関連
解思明
?-345年。出自は不明。李寿の長史に任じられた。李寿が皇帝・李期と対立すると羅恒とともに謀り、成都を占拠して李期を廃し東晋に従属することを進言した。李寿の死後、李勢の後継として皇太弟を立てることを求めたため、李勢の怒りを買って処刑された。諫臣。
李寿
300年-343年。字は武考。成漢の第4代皇帝。李特の弟李驤の子。軍を率いて成都に迫り奸臣排斥を上奏して李越らを処刑させた。さらに李期を廃して邛都県公に落とすと自ら皇帝に即位した。東晋に対する自立と臣従で国政が割れる中、徹底して帝位を維持した。後に病死。在位5年。
李流
248年-303年。巴氐の出身。兄の李特に従い流民と共に転戦した。李特が戦死すると李特の勢力は大きく動揺したが、甥の李雄らの武勇もあって羅尚を救援する荊州軍を撤退させた。しかしまもなく病が篤くなり、李雄を後継者に指名して死去した。兄李特の戦死から僅か七ヶ月後であった。