仏図澄
publish: 2021-08-19, update: 2021-10-25
232年-349年。姓は白。亀茲国、または天竺の出身。石勒、石虎からの信頼を得て、仏教を急速に普及させた。訳経を行わず神異僧に数えられるが、その布教は高邁な教義や神異の力ではなく、日常生活に則した生活態度を根本とした。門下からは多数の高僧を出し、仏教の源流となった。
関連
劉顕
?-352年。石祗の属将。冉閔と戦って大敗を繰り返し、恐れるあまり石祗を始め重臣を殺害して冉閔に帰順した。一方で自立を目論み冉閔から離反するが、悉く敗れた。曹伏駒の寝返りで襄国に入城した冉閔によって処刑された。最終的に後趙に止めを刺した人物に当たる。
釈道安
314年-385年。姓は衛。常山郡扶柳県の人。12歳で出家し仏図澄を師とした。仏図澄の死後は各地を流転し門徒を増やした。襄陽に移って檀渓寺に住む頃には盛況した。前秦の襄陽攻略で長安に連行され、以後苻堅をパトロンとした。仏教の研究のほか、鳩摩羅什の招聘や東晋遠征の反対などの建言を行った。
石勒
274年-333年。字は世龍。後趙の創建者。明帝。劉淵に従い前趙の将軍として河北を転戦し、西晋の幽州刺史王浚、并州刺史劉琨など、諸勢力を滅ぼした。前趙から独立して後趙を建て、河北に拠って前趙を滅ぼした。奴隷から皇帝まで上った中国史上唯一の人物とされる。在位15年。