傅俊
publish: 2021-10-03, update: 2021-10-25
? - 31年。字は子衛。潁川郡襄城県の人。王莽政権で襄城の亭長を務め、劉秀を迎えて校尉となった。このとき母と弟を失い昆陽の戦い以後、服喪のため帰郷した。河北攻略中に邯鄲で合流した。劉秀の皇帝即位時には陰麗華を迎える使者となった。積弩将軍、昆陽侯。
関連
劉懿
?-125年。少帝。後漢の第7代皇帝。済北王・劉寿の子。劉炟の孫。劉祜の死後、皇太后・閻氏によって擁立されたが、間もなく病没した。後に、孫程によって閻一族が粛清されると、王に降格されて改葬された。正史である范曄の『後漢書』では皇帝として扱われない。
耿宝
?-125年。字は君達。右扶風茂陵県の人。耿襲の子。耿弇の弟・耿舒の孫。妹を清河王・劉慶の王妃とし、安帝・劉祜の外戚となる。劉祜の親政により大将軍となるが、樊豊ら佞臣の増長を抑えられず、劉保の廃太子、楊震の免官を引き起こした。劉祜の死後、権力掌握を目論む閻氏一族によって投獄され自殺した。
劉楨
?-217年。字は公幹。東平郡寧陽県の人。劉梁の孫。曹操の辟召に応じて丞相掾属、平原侯庶子、五官将文学を務めた。曹丕、曹植と親交したが、曹丕の夫人・甄氏を平視した不敬で朝歌県県令に左遷された。誠実で才能があるが自制や遠慮に乏しいと王昶に評された。病没。著作は『詩品』に残る。