甘英 ( かんえい )

publish: 2022-01-27, update: 2022-01-27

王朝

章節

retsuden

生没年不詳。字は崇蘭。西域都護・班超によってローマとの国交を樹立するために大使として派遣された。条支に至って大海に阻まれ任務を断念した。大海がカスピ海、ペルシャ湾、地中海のいずれを指すかは明らかではない。ローマへ到達できなかったものの西方を伝える貴重な情報となった。

大海の渡航を諦めた理由として、彼が内陸の出身であったため渡海の知識に疎かったことが挙げられる。 例えば甘英の報告の中には海水が飲めないという初歩的な記載まである。 さらに背景を鑑みれば、中央アジアの諸国家は東西の交易によって利益を上げていたため、甘英の任務を知った者は快く思わず、渡海に対して無知な甘英に過大なリスクを吹き込んだのかもしれない。 甘英もまた、リスクを負ってここで死ぬよりは、何かしらの情報をもって帰還したほうが有益だと判断したのであろう。

関連

馬武

?-61年。字は子張。緑林軍で早くから劉演、劉玄に従った。劉秀とも協調し、謝躬の配下として昆陽の戦いや河北平定で劉秀を援けた。王郎討伐後は劉秀に従い、以後、多くの前線を受け持った。酒好きで直言する癖があったが、根は謙虚であり敵を作らなかった。捕虜将軍、楊虚侯。

劉辯

173年-190年。少帝。後漢の第13代皇帝。劉宏の子。皇太后・何氏と何進によって擁立されたが、まもなく何進は宦官の張譲らに暗殺され、張譲ら宦官も袁紹らに虐殺されたため、朝廷は混乱の極みに達した。後に朝廷を掌握した董卓によって弘農王に降格され、長安への遷都を前にして毒殺された。

袁紹

?-202年。字は本初。汝南郡汝陽県の人。何進の属官となって以後、昇進して西園八校尉など務めた。何進の死後、宦官を排斥し、董卓と対立すると冀州を拠点に群雄として割拠した。河北四州を統べて一大勢力を築くが、官渡の戦いで曹操に敗北して以降は衰退した。勢力回復に奔走するなか病没した。

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