干宝 ( かんほう )

publish: 2021-07-30, update: 2021-10-25

王朝

特質

学者

章節

retsuden

?-336年。字は令升。汝南郡新蔡県の人。干統の孫。干瑩の子。代々呉の官吏を務めた。王導の推薦を受けて史官となり、国史を編纂した。著作郎を経て散騎常侍まで昇る。幅広く著作を残し、『晋紀』『周易注』『春秋左氏函伝義』『周官礼注』『捜神記』がある。

関連

庾亮

289年-340年。字は元規。庾琛の子。永嘉の乱を江南に逃れ司馬睿が赴任すると王敦の推挙で任官した。王導の融和政策とは対称に法治政策をとり、蘇峻の乱を招いた。温嶠、陶侃の支持を得て蘇峻を滅ぼした。陶侃の死後、荊州刺史として西府軍団を後継した。病没。

杜預

222年-284年。字は元凱。杜畿の孫、杜恕の子。前漢の御史大夫・杜周の末裔。蜀、呉の討伐に深く関わった。政策に無駄がなく杜武庫の異名をとった。破竹の勢いの語源を残した。春秋左氏伝を研究した学者でもある。武廟六十四将の一人。詩聖・杜甫は末裔に当たる。

陶侃

259年-334年。字は士行。陶丹の子。劉弘に招聘されて張昌の乱を皮切りに江南に続出した反乱を鎮圧した。やがて江南を支配する司馬睿に帰順すると、杜弢、王敦、蘇峻の乱で功を成し西府軍団の母体を築いた。晩年は襄陽を回復した。朝廷への干渉を慎み続けた。病没。
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