耿弇 ( こうえん )

publish: 2021-08-12, update: 2021-10-25

王朝

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3年-58年。字は伯昭。扶風茂陵県の人。耿況の子。更始帝・劉玄が立ち王莽が敗れると、王莽政権下で上谷太守を務めた父の命で使者として長安に上ったが、途上で劉子輿を偽称する王郎の挙兵に阻まれ劉秀に仕えた。計略に優れ、後に曹操や檀道済に引用された。建威大将軍、好畤侯。

関連

王聖

生没年不詳。安帝・劉祜の乳母。鄧氏一族が政権を運営するとこれに不満を持ち、鄧綏の兄・鄧悝が平原王・劉翼の擁立を画策していると誣告し、劉翼の都郷侯降格へとつながった。野王君に封じられて江京、樊豊、王伯栄とともに恣肆暴虐と評された。閻氏一族の権力掌握により失脚し雁門郡へ流刑された。

堅鐔

?-50年。字は子伋。潁川郡襄城県の人。劉秀が河北攻略中に推挙されて主簿となった。河北平定、洛陽攻略に功があった。萬脩とともに董訢を討伐すると鄧奉の反乱に遭い一年に渡って孤立したが、劉秀の親征まで任地を死守した。左曹、合肥侯。

王叡

?-189年。字は通耀。琅邪郡臨沂県の人。琅邪王氏。後漢末期に荊州刺史を務めた。孫堅と共に荊州南部の反乱を鎮圧した。反董卓の動きが起こると不仲だった武陵太守・曹寅の殺害を図ったが、察知した曹寅に罪を偽造され檄文に応じた孫堅に攻められた。自害。 後任の荊州刺史には、董卓の命を受けた劉表が赴任した。
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