慧遠 ( えおん )

publish: 2021-08-19, update: 2021-10-25

王朝

特質

僧侶

章節

retsuden

334年-416年。姓は賈。雁門郡楼煩県の人。釈道安を師として出家した。前秦との戦乱を尋陽郡柴桑県に避け、廬山に入って以後30年間、山を下りなかった。白蓮社なる念仏結社を創り中国浄土宗の祖となった。仏法は王法に従属しないと説き、桓玄と意見を対立させた。

北周から隋にかけての同名人物と混同に注意。

慧遠の著書に以下のものがある。

  • 沙門不敬王者論
  • 法性論
  • 釈三報論
  • 大智度論抄
  • 大乗大義章

30年余に渡って廬山に籠ったことは、「虎渓三笑」の故事成語となった。慧遠は廬山にある虎渓と呼ばれる谷をいまだ渡ったことがなく、この谷は渡らないと自ら誓っていたが、あるとき陸修静と陶潜の訪問を受けて彼らの帰りを見送ると、慧遠は道中の話の面白さに夢中になってしまい思わず虎渓を越えてしまった、という逸話による。曾我蕭白によって墨画となっているほか、物事に熱中しすぎて他の事を忘れてしまう例えとして、一般的な四字熟語として使われる。

関連

王羲之

303年-361年。字は逸少。王曠の子。王導、王敦の従兄弟甥。人格と才覚を評価されて度々要職へ任官されたが、その度に辞退し地方官への任官を望んだ。後に会稽郡に移住し悠々自適と精進の中から楷書・行書・草書の各書を確立させた。書の芸術性を見出したとされ書聖と称される。

郗鑒

269年-339年。字は道徽。父の名は不明。郗慮の玄孫。司馬倫に仕えたが八王の乱で司馬倫が殺害されると処罰を免れて江南に渡った。司馬睿により兗州刺史に任じられ後趙と鎬を削る一方で、王敦・蘇峻の反乱鎮圧を経て北府軍団の母体を築いた。病没。

干宝

?-336年。字は令升。汝南郡新蔡県の人。干統の孫。干瑩の子。代々呉の官吏を務めた。王導の推薦を受けて史官となり、国史を編纂した。著作郎を経て散騎常侍まで昇る。幅広く著作を残し、『晋紀』『周易注』『春秋左氏函伝義』『周官礼注』『捜神記』がある。
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