祭遵
publish: 2021-08-12, update: 2021-10-25
?-33年。字は弟孫。潁川郡潁陽県の人。更始政権下で県の吏だったが、容姿と態度を劉秀に気に入られ河北攻略に従った。性は温厚でありながら苛烈であった。儒者であり清廉潔白を信条とし、罪を犯した者は劉秀の一族であっても格殺した。怒った劉秀に逮捕されたが、許されて厳正さを称えられた。征虜将軍、潁陽侯。
関連
耿宝
?-125年。字は君達。右扶風茂陵県の人。耿襲の子。耿弇の弟・耿舒の孫。妹を清河王・劉慶の王妃とし、安帝・劉祜の外戚となる。劉祜の親政により大将軍となるが、樊豊ら佞臣の増長を抑えられず、劉保の廃太子、楊震の免官を引き起こした。劉祜の死後、権力掌握を目論む閻氏一族によって投獄され自殺した。
劉宏
156年-189年。霊帝。後漢の第12代皇帝。解瀆亭侯・劉萇の子。河間王・劉開の曾孫。劉志に男子が無く、同じ河間王の筋から皇太后・竇妙、竇武、陳蕃らに擁立された。熹平石経を作成するなど学問を奨励する一方で、売官売爵といった短絡的な財政を行い、宦官の専横も止まらなかった。
袁紹
?-202年。字は本初。汝南郡汝陽県の人。何進の属官となって以後、昇進して西園八校尉など務めた。何進の死後、宦官を排斥し、董卓と対立すると冀州を拠点に群雄として割拠した。河北四州を統べて一大勢力を築くが、官渡の戦いで曹操に敗北して以降は衰退した。勢力回復に奔走するなか病没した。