解思明 ( かいしめい )

publish: 2021-05-07, update: 2021-10-25

王朝

章節

retsuden

?-345年。出自は不明。李寿の長史に任じられた。李寿が皇帝・李期と対立すると羅恒とともに謀り、成都を占拠して李期を廃し東晋に従属することを進言した。李寿の死後、李勢の後継として皇太弟を立てることを求めたため、李勢の怒りを買って処刑された。諫臣。

補記

李寿が政権を握るにあたって、東晋に従属することを勧める者と、自立を勧める者があった。 従属派としては、羅恒、解思明、李奕、王利らがあり、自立派としては、任調、蔡興、李艶、張烈らがあった。 李寿はこの是非を占わせると、占者は「数年の間は天子になれましょう」と告げた。 任調は「一日でも十分なのに、数年も天子いられますぞ」と喜んだのに対し、解思明は「数年の天子と、代々の諸侯のどちらが良いでしょう」と諫めた。 結局のところ、李寿の皇帝に対する意志は強く、「今は朝に道を聞かば夕べに死す時世だ」として、李寿は皇帝に即位した。

李寿が引用した言葉は、孔子の言葉「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」であり、朝、真理を聞くならば夕方に死んでも悔いはないという意味である。 ただし、異説も多く、真理を知る時間は短いことを説いて弟子を励ました言葉ともされる1

李寿は道を天子に置き換えて、皇帝となるならば数年後に死んでも悔いはないと覚悟したものである。


  1. 三省堂「今週のことわざ」より ↩︎

関連

李流

248年-303年。巴氐の出身。兄の李特に従い流民と共に転戦した。李特が戦死すると李特の勢力は大きく動揺したが、甥の李雄らの武勇もあって羅尚を救援する荊州軍を撤退させた。しかしまもなく病が篤くなり、李雄を後継者に指名して死去した。兄李特の戦死から僅か七ヶ月後であった。

范長生

?-318年。字は元寿。涪陵郡丹興県の人。天師道の教祖。蜀の八仙の一人。李特らが益州に入って羅尚と対立したとき、青城山に拠点を構えていたため、羅尚の下で汶山郡太守に任じられた。食糧を供給して李流を支援し、李雄に従って丞相まで昇った。病没。

李寿

300年-343年。字は武考。成漢の第4代皇帝。李特の弟李驤の子。軍を率いて成都に迫り奸臣排斥を上奏して李越らを処刑させた。さらに李期を廃して邛都県公に落とすと自ら皇帝に即位した。東晋に対する自立と臣従で国政が割れる中、徹底して帝位を維持した。後に病死。在位5年。
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