孔融
publish: 2021-08-10, update: 2021-10-25
153年-208年。字は文挙。魯国曲阜県の人。孔宙の子。孔子20世の孫。幼くして李膺に評価された。後漢末期に北海国の相を務めたが、袁紹の伸長に伴い中央へ逃れた。直言を好み、過度な批評は純粋、秋霜と評価される一方で、曹操からは嫌悪され、曹操に対する誹謗中傷の罪で処刑された。
オブラートに包むということを知らなかった人、というよりは、そのような婉曲な表現方法は、唾を吐き捨てるように嫌悪していたのだろう。孔融は建安の七子の一人として数えられる。建安文学そのものが儒学的な既存の礼に囚われない反骨に富んだものであるからにして、自らは儒学者であったにもかかわらず、孔融は思う存分、自らの思想を体現したのであろう。
身を滅ぼすほどの直言を成し得た源泉を幼少の逸話に見ることもできる。孔融は、当時名声を高くした李膺に面会すべく、「私の先祖は李君の先祖と親しかった間柄です」と門番に告げ取次ぎを頼んだ。孔融の先祖は孔子であり、李膺の先祖が老子だったことに託けたものだが、これに感心した李膺は孔融と面会した。当時、李膺と面会することは簡単ではなく、後世に故事成語として残った登竜門とは李膺の邸宅の門を指した。このとき、同席した陳煒なる高官は、才気渙発な孔融に「子供の時に頭が良くても、大人になってから頭が良いとは限らない」と皮肉をうった。これに対して孔融はひるむことなく「では貴方は子供の時はとても頭がよかったのですね」と皮肉で返した。大の大人が子供を皮肉るのは随分大人げなくも見えるが、孔融もよほど才気走っていたのであろう。ひとつ窘めておいてやろうという思いが陳煒にはあったとしても肯ける。それに対する孔融の応対は、子供が大人に言っているだけに痛烈である。可愛げのない嫌味な子供ではある。
また、党錮の禁で張倹が誣告され逃亡すると、張倹は親交のあった孔融の兄・孔褒を頼った。しかし、ちょうど孔褒は留守であった。張倹は幼い孔融相手では事情を話せず立ち去ろうとしたが、孔融は引き止めてしばらく匿った。後日、隠匿が漏れ役人の尋問を受けると、孔融は「匿ったのは自分です」といい、孔褒は「張倹が頼ったのは私で弟に責任はありません」といい、彼らの母は「子の事は年長の私に責任があります」といった。結局、事件の裁決は朝廷まで上り、孔褒が刑死することになったが、この一件で孔融の名は知れ渡った。権威や年長者を恐れず、自分の主義を主張する、あるいは主張してしまう、純粋だが不器用な性が見て取れる。