劉顕
publish: 2021-04-26, update: 2021-10-25
?-352年。石祗の属将。冉閔と戦って大敗を繰り返し、恐れるあまり石祗を始め重臣を殺害して冉閔に帰順した。一方で自立を目論み冉閔から離反するが、悉く敗れた。曹伏駒の寝返りで襄国に入城した冉閔によって処刑された。最終的に後趙に止めを刺した人物に当たる。
関連
徐光
?-333年。字は季武。頓丘郡の人。張賓の死後、石勒に重用された。父の徐聡は牛医であったが、戦乱のため幼くして王陽に捕らえられ労働に従事した。学識を認められ石勒に取り立てられた。石勒の不興を買って一時幽閉されるが、後に許され顕職を務めた。石勒の死後、石虎に誅殺された。
曹嶷
?-323年。劉柏根の反乱に従ったが、その死後は王弥の下で前趙に帰順した。王弥が石勒に殺害されると、独立を強めて青州一帯に勢力を築いた。東晋と修好したが、前趙を滅ぼした後趙の攻撃を受けると、各地で撃破されて降伏した。石虎に襄国へと送致され、石勒によって処刑された。
苻洪
284年?-350年。字は広世。元の姓を蒲とする。氐の出身。前趙、後趙に従い、石虎の代には使持節、都督六夷諸軍事、冠軍大将軍を受任し、西平郡公に封じられた。石虎の死後は冉閔と対立し、関中一帯に自立したが、麻秋に毒殺された。その勢力は子の苻健に引き継がれ、前秦の実質的な創建者と捉えられる。