劉曄 ( りゅうよう )

publish: 2021-10-13, update: 2021-10-25

王朝

章節

retsuden

生没年不詳。字は子揚。九江郡成徳県の人。成徳侯・劉普の子。阜陵王・劉延の末裔。曹操が寿春を攻略するころ蔣済や胡質と共に出仕した。魏が成ると関内侯、侍中となった。曹丕、曹叡の側近として太中大夫、大鴻臚を歴任するが、晩年は疎まれて失意のうちに没した。東亭侯。

父が成徳侯の爵位を持つように、劉曄は後漢末期においても王族の一員を成す名家の出身であった。 本貫は袁術の支配下にあったが、袁術に仕えていた具体的な記録はない。 ただし、当時、周瑜が居巣県令、魯粛が東城県令を務めており、特に魯粛とは友人関係にあったように、劉曄も袁術支配下で何らかの役職を得ていたと考えるのが自然である。 袁術が敗死し(199年)寿春一帯の支配が空白となったとき、袁術の旧臣、あるいは勢力を構成した軍閥はそれぞれ自活の道を模索した。 そのうち、江南へ移ろうとした鄭宝は劉曄の生まれの高貴さに着目して劉曄を盟主に担ごうとした。 しかし、劉曄は鄭宝には応じず、酒宴の中で鄭宝を殺した。 劉曄自身は盟主として軍勢を率いる意志を持たなかったようで、収集した軍勢は廬江郡太守の劉勲に預けてしまった。 劉勲は孫策と争い敗れて曹操を頼って落ち延びるが、劉曄は依然として本貫に留まったようである。 必要以上に権力を持たず、時の実力者の傘下に入る掴み所のない処世の様は、王族らしい立ち回りとも言える。 後に、曹操の淮南支配が確立するにあたって、曹操の登用を受けた。

掴み所のない性格は、彼の秘密主義的一面に現れている。 自身の考えや意志を容易には見せず他者の意見に反応的である癖は、若い時分に身に着けた処世術であったろうが、他者から見れば、自分の意見を持たない、あるいは不誠実だと捉えられることがあった。 曹叡が蜀の討伐に意欲を示したとき、劉曄は朝議では賛成したものの、退出してからは群臣に対して反対の意見を述べた。 これを知った曹叡は劉曄を呼んでその意図を質したが、劉曄は群臣の前では何も答えなかった。 後に、拝謁した劉曄は「蜀討伐の計画は国家機密であり、実行するまで漏らしてはならないのです」と説いた。 意見をひるがえす理由になっているのか分からないが、この煙に巻くような感覚こそ、劉曄の言動の印象であった。 劉曄のとある政敵は曹叡に対し、「劉曄は陛下の意見に阿るだけの不忠者です。試しに、次に諮問する際には本意とは反対の意見を仰ってください」と讒言した。 果たしてその言葉に思い当たる節のある曹叡は、やがて劉曄を信任しなくなったという。

没年が不詳である通り、晩年は半ば政界から引退した状態だったのであろう。 やがて、疎外感を募らせて発狂して死んだとも伝わる。 劉勲の件からも、劉曄自身は野望を持たず経世済民の志は薄かったように見える。 一方で、才能には優れ図らずも魏の枢機に携わるようになった。 この矛盾は隠逸を旨とする文人の特徴に当てはまり、竹林の七賢を先駆けたかのような印象がある。

関連

王祥

185年-269年。字は休徴。琅邪郡臨沂県の人。王融の子。伯父・王叡が孫堅に殺害されると一族と共に廬江へ逃れ、以後仕官を固辞し続けた。60歳を過ぎて徐州刺史・呂虔の招聘に応じ別駕となった。以降、経歴は温県令に始まり大司農まで昇り魏の重臣となった。西晋では太保、睢陵公まで昇った。

魚豢

生没年不詳。雍州京兆郡の人。魏の郎中となるが、そのほかの事跡は不明。私撰である『魏略』、および『典略』を著した。著書のほとんどは唐代後期に散逸し、現存ずるものはごく一部であるが、正史『三国志』を始め、他の史書の引用、転載として継承されたと考えられる。倭国に関する最古の記述と目される。
Page(/retsuden/220_魏/劉曄.md)