陸法和
publish: 2022-03-11, update: 2022-03-11
?-558年。出自は定まらない。貧道を自称して多数の弟子を取った宗教指導者。侯景が乱を為すと蕭繹に従い、任約や蕭紀を相手に戦った。蕭繹の即位と共に累進するが、指導者の立場を崩さず独自路線を採り、西魏が江陵を制圧すると北斉の高岳に降った。高官を務めつつ道士として全うした怪人物。
関連
祖珽
生没年不詳。字は孝徴。范陽郡遒県の人。祖瑩の子。范陽祖氏の出身で、勲貴や恩倖と権力を争った典型的な漢人系名族。和士開と争って入獄し、失明してなお権力への情熱を失わなかった。勲貴の斛律光を失脚させたほか、過度な権力闘争により北斉を衰退させた。北徐州刺史に左遷され任地にて没した。
高叡
534年-569年。小名は須抜。趙郡王。渤海郡蓨県の人。高琛の子。父が若くして処刑されたため、高歓に引き取られて父の爵位を継いだ。刺史を歴任して農業、養蚕の振興や長城の修築を行って評価された。兵の監督にも優れて人望を集め、軍の統御に卒がなかった。和士開を弾劾して不興を買い、劉桃枝に殺害された。
高演
535年-561年。字は延安。北斉の第3代皇帝。孝昭帝。高歓の第6子。高殷が即位すると、輔弼した楊愔、燕子献、宋欽道を偽勅で処刑し権力を掌握した。太皇太后婁昭君と結託して高殷を廃し自ら皇帝に即位した。落馬で重体となり死期を悟ると弟高湛に帝位を譲った。在位1年。