慕容紹宗 ( ぼようしょうそう )

publish: 2021-11-03, update: 2021-11-03

王朝

章節

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501年-549年。字は紹宗。慕容遠の子。前燕の太原王・慕容恪の末裔。爾朱栄および爾朱兆に従った。爾朱兆が自害すると残党をまとめて高歓に降った。侯景が叛すると東南道行台となり、侯景と梁の軍を撃破した。西魏の潁川攻略中に自船を拿捕され自害した。

関連

侯景

503年-552年。字は万景。侯標の子。出身は定かではない。爾朱栄の部将として頭角を現した。爾朱栄の死後は高歓に従って河南大行台を務めて河南の軍事を監督した。高澄に疑われて謀反し、後に侯景の乱と呼ばれる中華全土の勢力図を書き換える契機を作った。建康陥落後に皇帝を称するが、王僧弁らに追われて敗死した。

司馬子如

489年-553年。字は遵業。司馬興龍の子。西晋の南陽王・司馬模の末裔。若くして高歓と交友を結び、爾朱栄に属した。高歓による実権掌握後は、度々免官されるもその都度復帰して顕職を歴任した。北魏、東魏、北斉の3朝に仕えた。病没。四貴の一人。

賈智

493年-537年。字は顕智。中山郡無極県の人。賈道監の子。北魏末に相次いだ反乱に対応し功績をあげた。爾朱栄の台頭、爾朱氏の内紛を巧みにくぐり抜け、高歓に従った。開府儀同三司、侍中まで上った。各州の刺史を務めたが民衆を搾取しており民政には明るくない。東魏が成り晋陽へ赴任し、後に罪の連座を受けて刑死した。
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