沈田子
publish: 2021-07-09, update: 2021-10-25
383年-418年。字は敬光。呉興郡武康県の人。沈穆夫の子。劉裕が桓玄討伐に挙兵すると従った。北伐に従軍したほか、盧循の乱にも対処して功を挙げた。長安占領時は劉義真の下で王鎮悪と共に防御に当たったが、不信を募らせて王鎮悪を殺害した。まもなく王修に殺害された。
関連
郗鑒
269年-339年。字は道徽。父の名は不明。郗慮の玄孫。司馬倫に仕えたが八王の乱で司馬倫が殺害されると処罰を免れて江南に渡った。司馬睿により兗州刺史に任じられ後趙と鎬を削る一方で、王敦・蘇峻の反乱鎮圧を経て北府軍団の母体を築いた。病没。
釈道安
314年-385年。姓は衛。常山郡扶柳県の人。12歳で出家し仏図澄を師とした。仏図澄の死後は各地を流転し門徒を増やした。襄陽に移って檀渓寺に住む頃には盛況した。前秦の襄陽攻略で長安に連行され、以後苻堅をパトロンとした。仏教の研究のほか、鳩摩羅什の招聘や東晋遠征の反対などの建言を行った。
顧愷之
生没年不詳。字は長康。晋陵郡無錫県の人。顧悦之の子。桓温や殷仲堪の属官を務め、晩年は中央に入って散騎常侍となった。多才であり才絶、画絶、癡絶の三絶を備えると云われ、多くの名画を残して画聖と称される。肖像画を得意とし描線の美を知らしめた。真筆は散逸したが模写が傑作と評価されて残る。