王渾 ( おうこん )

publish: 2021-08-05, update: 2021-10-25

王朝

章節

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223年-297年。字は玄沖。并州太原郡晋陽県の人。王昶の子。京陵侯を継承したが曹爽の失脚で免官となった。懐県県令として復帰以後は累進し豫州刺史、豫州諸軍事となった。呉征伐では一軍を率いて南進し、功は王濬と双璧を成した。晩年は兵権を返上し顕職を歴任しては名声を落とした。

この時代、高すぎる名声は身を滅ぼす原因であったため、名声を落したのは故意によるものと解釈できる。 事実、八王の乱は名声の高い重臣や王族が担ぎあげられて、互いに政争を繰り返したものであり、王渾はその禍を未然に避けたことになる。 王渾の没年である297年は、賈氏による専横の時期にあたり、中央職を歴任していながら王渾の晩年は事跡に少ない。 表立った政治活動を行わなかったためであろう。

なお、王戎の父と同名であるが別人である。王戎の父の字は長源となる。

関連

司馬越

?-311年。字は元超。東海王。司馬馗の孫。司馬泰の子。八王の一人。司馬乂を裏切って殺害した。司馬穎、司馬顒と対立して一時劣勢となるが、王浚らの援軍を得て司馬穎、司馬顒の排斥に成功した。司馬衷の死後、司馬鄴を擁したが、拡大する前趙を抑えられないまま、陣没した。

羊祜

221年-278年。字は叔子。羊儒の曾孫、羊続の孫、羊衜の子。諸事に慎ましく先見の明を持ち、才幹に身を滅ぼす事が無かった。都督荊州諸軍事として積極的な呉征伐を論じる一方で、呉将の陸抗と交誼を重ねて羊陸之交の故事成語を残した。病没。後任に杜預を推挙した。

司馬遹

278年-300年。字は煕祖。司馬衷の子。聡明さを祖父・司馬炎に溺愛されたが、成長と共に学問から遠ざかり、次第に評判を失った。実子のいない賈南風から疎まれ、賈謐と対立した。賈南風によって謀叛の罪を着せられて、廃太子ののち、庶人に落とされた。まもなく賈南風によって暗殺された。
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