王浚
publish: 2021-04-24, update: 2021-10-25
252年-314年。字は彭祖。王沈の子。都督幽州諸軍事として幽州の軍事を総括した。辺境の地の利を活かして三王起義ではどちらにも与せず、司馬顒、司馬穎と敵対した。鮮卑と修好する一方で、劉琨と内訌した。西晋が著しく弱体化すると帝位を狙ったが石勒に滅ぼされた。
関連
司馬倫
?-301年。字は子彝。趙王。司馬懿の第9子。八王の一人。賈南風が司馬遹を廃太子すると、賈南風を教唆して司馬遹を殺害させ、司馬遹殺害の罪で賈氏一族を粛清した。司馬衷を上皇として自ら皇帝を称した。朝廷は混乱し司馬冏らの三王起義を誘発させた。王輿らにより捕縛され、のち毒殺された。
羊献容
?-322年。羊玄之の子。泰山羊氏の出自。母が孫旂の娘であったことから、司馬倫が賈南風を廃位したとき孫秀によって恵帝皇后に擁立された。その後、八王の乱で主導者が入れ替わるたびに廃位と復位を繰り返した。洛陽陥落時には平陽へ連行され劉曜に保護され、後に皇后となった。皇后となること七度に及ぶ。
司馬熾
284年-313年。字は豊度。西晋の第3代皇帝。懐帝。司馬炎の第25子。司馬衷の死後、即位した。全国の反乱に応対するが、西晋の衰退を止めることは出来なかった。司馬越が洛陽を空にして出鎮したまま病死すると、前趙の攻撃により洛陽は陥落した。平陽に拉致されたのち処刑された。