呉明徹
publish: 2021-11-03, update: 2021-11-03
512年-578年。字は通昭。呉樹の子。梁に仕えて各武官職、刺史を歴任した。侯景の乱では陳霸先の信用を得て、陳の建国後さらに累進した。北伐を行い淮南を回復するが、三度に渡る呂梁の戦いの結果、北周に敗れて捕縛され、長安へ連行された。長安にて病没。
関連
章昭達
518年-571年。字は伯通。侯景の乱では建康を守るが落城と共に脱出した。陳蒨と親交を結び、王琳、周迪、陳宝応、留異らの反乱を平定して、陳初の安定に寄与した。その後も、華皎や欧陽紇の反乱を鎮めつつ、後梁や北周と戦った。病没。
陳蒨
522年-566年。字は子華。陳の第2代皇帝。文帝。陳霸先の兄陳道談の第1子。王僧弁の残党を糾合した王琳が蕭荘を擁立して梁の正統を立てると、周迪、留異、陳宝応ら各地の反乱と共にこれを滅ぼした。北周と修好を結び北斉の介入を退けた。内政を安定させ陳の基盤を固めた。在位7年。
劉師知
?-567年。劉景彦の子。梁の諸王府の参軍を歴任した。学問を好んで博学であり、陳建国時の儀礼、制度を定めた。陳蒨が重篤になると到仲挙らと共に病床に近侍して決裁を代行した。陳伯宗が即位すると、陳頊の排斥を行ったが、かえって陳頊に捕縛され処刑された。