謝霊運 ( しゃれいうん )

publish: 2021-10-28, update: 2021-10-28

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385年-433年。字は宣明。陳郡陽夏県の人。謝瑍の子。謝玄の孫。東晋の康楽公を継いだが、宋では侯に降格された。永嘉郡太守、秘書監、侍中を務めながらも度々辞職し詩作に没頭した。隠遁しつつも生活は豪勢で、騒乱の罪を得て広州に流刑された。道中、脱走の容疑で処刑された。

謝玄の孫と言えば名門貴族ではあるが、謝霊運の代では一族の謝混が劉裕に処刑されており、王朝交代時の移行に失敗があった。 故に、謝霊運は名門ではあったが、微妙な政治的不遇も得ていた。 とはいえ、その職歴を見れば賤吏とは言えない高級職であり、ここに彼自身の名門としての自負も見て取れる。 彼自身には才能も多かったが、性格には傲慢さがあり、このため政界に居場所を作るには至らなかった。 半ば隠棲して詩業に励んだが、名門ゆえに政界から完全に離れることもできず、その性格から処世に失敗し処刑される。

そんな彼が美を見出した先は、人間ではなく自然であった。 山水詩の祖とも言われ、既存の自然観を脱却して山水を美の対象としたことは大きな変革とされる。 また、仏教にも深く精通し、改訂、注釈を行った著書が残る。

関連

徐羨之

364年-426年。字は宗文。東海郡郯県の人。徐祚之の子。東晋の太子少傅の主簿を務め、桓玄が楚を興すと劉裕の挙兵に従った。劉裕の死に際し傅亮、謝晦、檀道済と共に劉義符の補佐を遺言された。劉義符の廃位を進め劉義隆を即位させた。やがて専横が目立つようになり、劉義符殺害の罪を問われて自害した。

陶潜

365年-427年。字は淵明。陶侃の曾孫。393年以降、断続的に東晋の属官として出仕するが、官吏の職務を嫌い彭沢県の県令を最後に隠遁生活に入った。晴耕雨読の中で詩文を残し、桃源郷の語源を作った。その詩業は世俗から離れた理想を表現したものとして評価が高い。陶淵明の名で知られる。

劉湛

392年-440年。字は弘仁。南陽郡安衆県の人。劉柳の子。前漢の長沙王・劉発の末裔。宰相を志して管仲や諸葛亮に憧れた。劉裕の属官として厚遇を受けた。宋が成ると諸王の属官を務めつつ中央職を昇進した。劉義康が朝廷を専横するとこれを補佐したため、劉義隆に逮捕、処刑された。
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