楊愔 ( よういん )

publish: 2022-03-08, update: 2022-03-08

王朝

章節

retsuden

511年-560年。字は遵彦。弘農郡華陰の人。楊津の子。名門、弘農楊氏の出。幼くして寡黙、沈着で言論に優れた。北鎮の乱を経て高歓に仕官し行台郎中となった。公文書を扱って枢機に預かり、高洋の即位後は侍中、尚書令を歴任した。高演、高湛の排除を目論み露見し殺害された。

蘭京による高澄殺害の現場に居合わせた一人で、狼狽して逃走し、片方の靴を現場に残した逸話が残る。

関連

高叡

534年-569年。小名は須抜。趙郡王。渤海郡蓨県の人。高琛の子。父が若くして処刑されたため、高歓に引き取られて父の爵位を継いだ。刺史を歴任して農業、養蚕の振興や長城の修築を行って評価された。兵の監督にも優れて人望を集め、軍の統御に卒がなかった。和士開を弾劾して不興を買い、劉桃枝に殺害された。

高延宗

544年-577年。安徳王。高澄の第5子。高粛の弟。陳、北周の侵略が始まると、及び腰の宗族の中で善戦した。高緯が逃走すると、周囲から皇帝として擁立され晋陽を守備した。北周の侵攻になすすべなく捕縛され、北斉滅亡後は賓客として遇されたが、穆提婆の反乱未遂がおこると自害した。

斛律光

515年-572年。字は明月。斛律金の第1子。父に従い初陣で宇文泰の長史・莫者暉を討ち取った。大鵰(オオワシ)を射止めたことから落鵰都督と呼ばれ、高歓、高澄に厚く任用された。娘に皇后を輩出するなど一族揃って栄転したが、祖珽や穆提婆の恨みを買い、讒言を受けた高緯に処刑された。
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