陽裕
publish: 2021-07-29, update: 2021-10-25
生没年不詳。字は士倫。陽耽の甥。幼少に父を亡くし早くから自立した。幽州刺史和演の主簿となったが、王浚が和演を殺害して実権を握ると疎まれた。その後、段部、後趙と仕官先を変えながらも名声は高まり、後趙の段遼攻撃中に前燕に捕縛され慕容皝に取り立てられた。慕容皝の代に病没。
関連
裴嶷
生没年不詳。字は文冀。河東郡聞喜県の人。西晋で中書侍郎となり昌黎郡太守として遼東に赴任した。兄の死後、中央に召還されて遼西を通過したとき、慕容廆に礼遇されて以後、慕容廆に仕えた。慕容廆からは天が君を下賜したと言わしめて絶大な信任を得た。手腕は謀略、政治の広範におよび、前燕の基盤確立に貢献した。
慕容暐
350年-384年。字は景茂。前燕の第3代君主。幽帝。慕容儁の三男。河南へ進出し東晋領の洛陽を得るも慕容恪の死後は国威が低下する。洛陽の領有問題を起点に前秦と敵対し大敗のすえ鄴は陥落、降伏した。在位11年。淝水の戦い以後没落する苻堅の暗殺を試みるが失敗し殺害された。
可足渾氏
生没年不詳。慕容儁の皇后。景昭皇后。慕容暐、慕容沖の母。猜疑心や妬心が強く、慕容垂の妻である段氏を死に至らしめたため、慕容垂とは徹底的に仲違いした。権力掌握を目指した慕輿根に利用されたり、慕容垂の誅殺を企むなど、前燕滅亡の遠因となった。