楊震 ( ようしん )

publish: 2021-08-15, update: 2021-10-25

王朝

章節

retsuden

54年-124年。字は伯起。弘農郡華陰県の人。楊宝の子。前漢の楊喜を祖とする名家の出身。長らく仕官せず50歳で鄧騭の推挙を受けた。荊州刺史、東萊太守などを歴任し、中央に召されて太僕、太常、太尉を務めた。鄧氏の失脚後は王聖、伯栄、閻顕、耿宝、樊豊ら佞人の讒言を受け免官、蟄居した。自害。

楊震は、贈賄や縁故主義を徹底して拒絶した。賄賂の受け取りを拒否する逸話は、四知の故事成語となった。いわゆる「天知る地知る~」のことわざである。しかし、その姿勢は当時の時代背景を些か逸脱するものだったと言えなくもない。楊震の働きによって多くの名士が登用され朝廷の質が一新されたが、その背景には外戚や宦官の放恣があったからに他ならない。処世を顧みない真っ直ぐな性格は、結果として免官、蟄居、自害という結果をもたらした。葬儀は許されず棺は放置された。一族は庶民に落されたが、順帝・劉保の代に改葬と復職が許された。

西晋以後、一族は北朝の高官を輩出した。後世、隋の楊堅は楊震を祖と称した。

関連

杜茂

? - 43年。字は諸公。南陽郡冠軍県の人。劉秀が河北を攻略するなか合流した。北方に割拠した盧芳の対応に当たり、馬成が後任するまで長らく匈奴の侵入に備えた。横領、殺人教唆で免官、減俸を受けた。驃騎大将軍、参蘧侯。

韓遂

?-215年。字は文約。元の名は韓約。辺章とともに涼州での名声が高く、土着する羌、氐の不満分子と結びついて反乱した。皇甫嵩の討伐を退けて、以後、服従と反乱を繰り返して巧みに独立を維持した。曹操の攻略に敗北し、逃走先で斬られたとも病死したともいわれる。享年70余歳。

袁紹

?-202年。字は本初。汝南郡汝陽県の人。何進の属官となって以後、昇進して西園八校尉など務めた。何進の死後、宦官を排斥し、董卓と対立すると冀州を拠点に群雄として割拠した。河北四州を統べて一大勢力を築くが、官渡の戦いで曹操に敗北して以降は衰退した。勢力回復に奔走するなか病没した。

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