袁紹 ( えんしょう )

publish: 2021-11-25, update: 2021-11-25

王朝

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?-202年。字は本初。汝南郡汝陽県の人。何進の属官となって以後、昇進して西園八校尉など務めた。何進の死後、宦官を排斥し、董卓と対立すると冀州を拠点に群雄として割拠した。河北四州を統べて一大勢力を築くが、官渡の戦いで曹操に敗北して以降は衰退した。勢力回復に奔走するなか病没した。

生年が不明であるように、その前半生はっきりとしない。 生まれは袁成の子、あるいは袁逢の庶子とされる。 袁成は若くして没しているため、いずれにしても袁逢、袁隗に育てられた。 袁紹と、袁術の正嫡の争いからも、どちらの生まれも妥当性がある。

袁紹の河北統治には遺漏は無かった。 このことは、袁紹の死後、子がそれぞれ領地を継承したことや、曹操が河北を掌握するのに五年を要していることから、袁紹が割拠して数年のうちに十分な基盤を築いていたことが窺える。 この点で、ライバルでもあった袁術との個人的優秀さに関しては比ぶべくもない。

最大のライバルは、むしろ当初は鼻にも掛けなかった曹操であっただろう。 曹操は外交的には袁紹に臣従したため、袁紹は曹操を攻める絶好の機会で攻めず、機会を失い重臣の反対を押し切って攻めた。 これは袁紹の甘さでもあり、優柔不断と評価される所以でもある。 袁紹の優柔不断さは、重臣たちの派閥形成を許する態度にもある。 袁紹自身が、その派閥争いに巻き込まれてしまった感さえある。 その結果が、官渡の戦いである。

官渡の戦いでは、曹操に敗北したものの、決定的な打撃にはならず、曹操はあくまでも袁紹陣営の勢いをくじいたに過ぎない。 結果的に見れば、官渡の戦いは歴史の分水嶺と見ることが出来るが、当時の曹操からすれば、袁紹の南進を何とか耐えきったというのが、官渡の戦いの本当のところであろう。

関連

陳琳

?-217年。字は孔璋。広陵郡射陽県の人。何進の主簿を務めた。何進が各地の将軍を召集したとき反対した。何進の死後は冀州に逃れて袁紹に仕えた。官渡の戦いを前にして曹操を中傷する檄文を書いた。後に檄文は蕭統が編纂した『文選』に名文として収められた。病没。

諸葛玄

?-197年。琅邪郡陽都県の人。諸葛亮の叔父。兄・諸葛珪が急死したため一族の家長を務めた。承制によって豫章太守となるが、朝廷から正式に豫章太守に任命された朱皓と争った。荊州に逃れてまもなく病没したとも、朱皓を支援する劉繇、笮融と敵対して敗死したともあり定かではない。

李忠

?-43年。字は仲都。東萊郡黄県の人。もと高密国の郎。王莽政権では信都郡の尉、劉玄政権では信都郡の都尉を拝命した。信都郡太守の任光に従い劉秀を迎えた。龐萌、董憲の討伐に加わり、後に江南に移って広く開墾した。略奪を行わない厳正さと、激しい忠義を持った。豫章太守、中水侯。
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