袁術 ( えんじゅつ )

publish: 2021-11-23, update: 2021-11-25

王朝

特質

僭称

標籤

章節

retsuden

155年-199年。字は公路。汝南郡汝陽県の人。袁逢の子。名門出身で孝廉を経て河南尹など務めた。何進の暗殺を機に宦官を誅殺するが、董卓が入朝すると禍を恐れて南陽を実効支配した。曹操らと争って拠点を寿春へ移し、皇帝に即位して国号を仲とした。失政と外患により国威は失せ、病死した。

袁紹は異母兄、または従兄とされるが定かではない。 いずれにしても、董卓政権の中で袁氏の有力人物の多くが処刑されたため、袁術が袁紹を差し置いて袁氏の総領としての立場を自任していたことは確からしい。 このことは、袁紹を妬んで度々中傷していたことや、結果として袁氏が一致団結しなかったことで、董卓死後の群雄の外交を複雑なものにしている。 呂布への援助や、孫策の後援を行ったが、呂布は敗亡し、孫策は離反するなど、その経略はことごとく失敗した。

性格は横柄、生活は豪奢であり、善政を布かずに帝位を維持したため、配下の豪族や軍閥は離反し、最終的には半ば自壊した。 袁術は帝位を袁紹へ譲り、代わりに庇護を得ようとした。 袁紹もまた哀れに思ったものか、青州刺史の袁譚に迎えさせたが、袁術の北上を察知した曹操、劉備の勢力に阻止された。

袁術の死後、一族の袁胤が後を継いだが、勢力は保持し得ず、廬江太守・劉勲に保護された。 後に、孫策が勢力を台頭させると、その保護に入り、袁術の娘は孫権の側室となった。 断絶した袁紹とは対称的に、おおよそ、亡国の末裔としては厚遇されたといえよう。

関連

馬武

?-61年。字は子張。緑林軍で早くから劉演、劉玄に従った。劉秀とも協調し、謝躬の配下として昆陽の戦いや河北平定で劉秀を援けた。王郎討伐後は劉秀に従い、以後、多くの前線を受け持った。酒好きで直言する癖があったが、根は謙虚であり敵を作らなかった。捕虜将軍、楊虚侯。

陳琳

?-217年。字は孔璋。広陵郡射陽県の人。何進の主簿を務めた。何進が各地の将軍を召集したとき反対した。何進の死後は冀州に逃れて袁紹に仕えた。官渡の戦いを前にして曹操を中傷する檄文を書いた。後に檄文は蕭統が編纂した『文選』に名文として収められた。病没。

張衡

78年-139年。字は平子。南陽郡西鄂県の人。貧家に生まれたが、幼くして文学を好み賞賛された。洛陽、長安へ留学し崔瑗に師事して学問を修めた。太史令、河間国相、尚書を歴任したが、性は剛直で官職を好まなかった。天文学、数学、地学に精通したほか、賦、絵画を得意とした文人でもある。

Page(/retsuden/25_後漢/199_袁術.md)