諸葛玄
publish: 2022-02-08, update: 2022-02-11
?-197年。琅邪郡陽都県の人。諸葛亮の叔父。兄・諸葛珪が急死したため一族の家長を務めた。承制によって豫章太守となるが、朝廷から正式に豫章太守に任命された朱皓と争った。荊州に逃れてまもなく病没したとも、朱皓を支援する劉繇、笮融と敵対して敗死したともあり定かではない。
諸葛玄を豫章太守に任命したのは劉表(『呉書』『献帝春秋』)、あるいは袁術(『蜀書』)だとされる。
関連
陳琳
?-217年。字は孔璋。広陵郡射陽県の人。何進の主簿を務めた。何進が各地の将軍を召集したとき反対した。何進の死後は冀州に逃れて袁紹に仕えた。官渡の戦いを前にして曹操を中傷する檄文を書いた。後に檄文は蕭統が編纂した『文選』に名文として収められた。病没。
朱祜
?-48年。字は仲先。南陽郡宛県の人。母方の実家を復陽の劉氏とし、劉秀、劉縯と親交を結んだ。劉秀配下の最古参。長安留学中は劉秀と共に薬を売って学費とした話が残る。儒学に詳しくその性格は質朴で正直だった。輝かしい武功こそ欠けるが、その人格を劉秀に愛された。建義大将軍、鬲侯。
甘英
生没年不詳。字は崇蘭。西域都護・班超によってローマとの国交を樹立するために大使として派遣された。条支に至って大海に阻まれ任務を断念した。大海がカスピ海、ペルシャ湾、地中海のいずれを指すかは明らかではない。ローマへ到達できなかったものの西方を伝える貴重な情報となった。