朱儁
publish: 2022-02-08, update: 2022-02-08
?-195年。字は公偉。会稽郡上虞県の人。郡県の吏人を経て孝廉に挙がり、蘭陵県令、交州刺史、諫議大夫と昇進した。黄巾の乱以後は、反乱鎮圧に転戦して顕官を歴任した。董卓が長安へ遷都すると独自路線をとって陶謙、孔融らの支持を得た。董卓の死後、再度入朝して李傕らを調停したが、郭汜に囚われて間もなく病没した。
関連
傅俊
? - 31年。字は子衛。潁川郡襄城県の人。王莽政権で襄城の亭長を務め、劉秀を迎えて校尉となった。このとき母と弟を失い昆陽の戦い以後、服喪のため帰郷した。河北攻略中に邯鄲で合流した。劉秀の皇帝即位時には陰麗華を迎える使者となった。積弩将軍、昆陽侯。
孫程
?-132年。字は稚卿。涿郡北新城県の人。安帝の治世に宦官として中黄門となった。劉祜、劉懿が相次いで没すると、廃太子されていた劉保の復権に動き、閻顕が諸王子を召喚したのを機に、王康らと共に江京、劉安、陳達を斬って政変を成した。浮陽侯となり養子への相続が認められた。病没。
杜茂
? - 43年。字は諸公。南陽郡冠軍県の人。劉秀が河北を攻略するなか合流した。北方に割拠した盧芳の対応に当たり、馬成が後任するまで長らく匈奴の侵入に備えた。横領、殺人教唆で免官、減俸を受けた。驃騎大将軍、参蘧侯。