李庠
publish: 2021-05-07, update: 2021-10-25
247年-301年。字は玄序。李慕の子。李輔、李特の弟。李流、李驤の兄。郡の属官として仕えたが任官を固辞した。斉万年の乱では流民となって蜀へ渡るが、任侠心が強く人望を集めた。趙廞が決起するとこれに従うが、趙廞に勢力を恐れられて誅殺された。
関連
李流
248年-303年。巴氐の出身。兄の李特に従い流民と共に転戦した。李特が戦死すると李特の勢力は大きく動揺したが、甥の李雄らの武勇もあって羅尚を救援する荊州軍を撤退させた。しかしまもなく病が篤くなり、李雄を後継者に指名して死去した。兄李特の戦死から僅か七ヶ月後であった。
李雄
274年-334年。巴氐の出身。成漢の創設者。武帝。益州刺史羅尚を撤退させ成都を完全に制圧すると、成都王を称して成漢を成立させた。断続的に東晋と係争し漢中・巴東・寧州を攻略する一方で、前涼の張駿が東晋への臣従を勧めたときには一定の理解を示した。在位は30年に及ぶ。
范長生
?-318年。字は元寿。涪陵郡丹興県の人。天師道の教祖。蜀の八仙の一人。李特らが益州に入って羅尚と対立したとき、青城山に拠点を構えていたため、羅尚の下で汶山郡太守に任じられた。食糧を供給して李流を支援し、李雄に従って丞相まで昇った。病没。