慕容麟
publish: 2021-10-19, update: 2021-10-25
?-398年。後燕の趙王。慕容垂の庶子。参合陂の戦いでは配下の慕輿嵩が擁立騒ぎを起こすなど、敗北の一因を作った。中山にて反乱を起こすが失敗して太行山に逃れ、慕容詳の悪政を機会にして慕容詳を攻め自ら即位した。北魏に攻められると鄴の慕容徳を頼った。後に造反し慕容徳に処刑された。
後燕きっての危険人物である。
慕容垂が前秦へ亡命した理由は、叔父・慕容評、および皇太后・可足渾氏との対立のためであった。 当初、慕容垂は可足渾氏との和解に努めており、亡命前夜とも言えるタイミングで、慕容垂は龍城に向かって疑惑を解こうと計画していた。 ところが、慕容麟は鄴へ引き返すと亡命の計画を暴いてしまったため、慕容垂は亡命せざるを得なくなってしまった。
また、亡命後、兄・慕容令が王猛の策略で誤って前燕に帰国すると、慕容令は沙城にて反乱を計画したのだが、慕容麟が慕容亮に密告したため、慕容令は慕容亮に殺されてしまった。 前燕の滅亡後、慕容麟の母は処刑され、慕容垂からは縁を切られたが、後に、再び慕容垂の信用を得るようになっている。
参合陂の戦いでは拓跋珪が慕容垂の訃報を流し、慕容麟の配下・慕輿嵩を唆して慕容麟を擁立させようと謀略した。 この計画自体は失敗したが、慕容宝と慕容麟には亀裂が生まれ敗北の遠因となった。 拓跋珪が慕容麟の人間性を見抜いて謀ったものかは分からないが、少なくとも人を見る目、配慮の点では、慕容垂よりも拓跋珪が上回っていたと言えるかもしれない。
その後、再び慕容宝の信頼を得たというから、人たらしにもほどがある。 しかし、任地の中山では北魏との戦いを避け、慕容農と慕容隆の反感を買っており、後燕の勢力が衰退するに連れて保身に動き出したのは間違いないであろう。 中山にて反乱を起こし、これは失敗するものの、慕容詳が僭称して失政すると、この後釜を狙って攻め、皇帝に即位した。
しかし、北魏に対抗することはできず、鄴に駐屯した慕容徳を頼り、慕容徳に皇帝即位を薦めた。 これが南燕の始まりである。 ここでも、慕容麟は慕容徳に信任されており、どこまでも人につけ入るのが上手い人間であった。 だが、結局その浮ついた悪癖も抜けなかったのであろう、やがて、造反を企んで処刑された。